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今川史

戦国武将の紹介シリーズです。
今回は戦国の名家、なぜか公家扱いされる今川家の戦国史です。
全てはプリさんから紹介された動画が始まりでした……。
まあ、元々今川好きでしたけど。。

源流
清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏一門吉良氏の分家にあたり、
「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」
と言われた足利一門の中では斯波氏に次ぎ、名門中の名門です。


南北朝時代、今川範国らが足利尊氏の北朝に属し、各地で戦功を挙げ、駿河・遠江の守護に任ぜられました。
範国の嫡男範氏は観応の擾乱に際して尊氏方について功を立て、
駿河守護職を継承し、範氏の系統が今川氏嫡流として駿河守護を世襲する事になりました。
こうして室町幕府の元にあっても名門として代々続いていったのです。


今川義忠
今川家六代当主。
当時の今川氏は本拠の駿河国以外に遠江国の守護を保持していましたが
1419年以降は遠江国が斯波氏の分国とされていました。
さらに遠江国にあった今川了俊系の分家の所領が今川範将が反乱を起こして討たれた後に、
斯波氏の被官の国人に奪われており、今川氏と斯波氏との対立が深まっていたのです。
そんな時勢の中で、1467年応仁の乱にて細川勝元の東軍に属し戦いました。
敵対している斯波氏が西軍に入った事も一因だとされています。
この上洛中に、伊勢新九郎(北条早雲)の姉である北川殿と結婚したようです。
伊勢新九郎は長年、素浪人とするのが通説で、その姉妹の北川殿は側室とされていました。
しかし、近年の研究によって、伊勢新九郎は幕府政所執事の名門伊勢氏の一族で
備中伊勢氏の幕臣伊勢盛時であることがほぼ明らかになっています。
上洛中に義忠は政所執事伊勢貞親をしばしば訪ねており、新九郎の父の盛定が今川家との申次衆を務めていました。
その縁で北川殿が義忠と結婚した、とするのが妥当でしょうね。
北川殿との間には1473年に嫡子龍王丸(氏親)が生まれています。


今川氏親
今川家七代当主。
今川家を守護大名から戦国大名へと変換させた戦国初期の大物です。
父が亡くなった時、氏親はまだ幼少だったため、
家臣の三浦氏、朝比奈氏らが一族の小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立して家督争いが起こり、
氏親派と範満派が分かれて数度の合戦に及ぶ事態になりました。
堀越公方執事の上杉政憲と扇谷上杉氏家宰の太田道灌が兵を率いて駿河国へ進駐して家督争いに介入したところ、
叔父である伊勢新九郎が仲裁に入り、範満が氏親の後見人として家督を代行することで決着しました。
伊勢新九郎が浪人と考えられていた頃は、知略に優れた北条早雲の出世の第一歩のように語られていましたが、
近年の研究で名門伊勢氏の幕臣であることがほぼ明らかになっており、
これは幕府の意向を受けて伊勢新九郎が駿河国へ下向して今川家の内紛を調停した、といえるでしょう。
だが、氏親が15歳を過ぎて成人しても範満は家督を返そうとはせず、家督奪取の動きを見せてました。
1487年北川殿と氏親は京で将軍義尚に仕えていた伊勢新九郎に助けを求め、新九郎は再び駿河国へ下向します。
同年11月、伊勢新九郎は石脇城を拠点に兵を集めて駿河館を襲撃して範満を殺害、
氏親は駿河館に入って元服し、今川家の当主となりました。
伊勢新九郎には興国寺城が与えられました。
その後、堀越公方に内紛が起きて1493年将軍義澄の命により、北条早雲は足利茶々丸を討伐して伊豆国を手中にしました。
氏親も早雲に兵を貸してこれを助けています。
これは管領細川政元が起こした明応の政変に連動した動きでありました。
以後、氏親と早雲は密接な協力関係を持って支配領域の拡大を行うことになります。
駿河国の隣国遠江国は元は今川家が守護職を継承していたが、後に斯波氏に守護職を奪われていました。
遠江国奪還は今川家の悲願となり父義忠は遠江国での戦いで命を失っています。
氏親も積極的に遠江国への進出を図り、早雲に兵を率いさせて遠江国中部まで勢力下に収めました。
この時には氏親は未だに遠江守護ではなかったものの、独自の立場で検地を行って守護斯波氏による支配体制を否認しています。
これによって今川家は事実上室町幕府からの統制を離れて守護大名から戦国大名の段階へ移ったとされています。
さらに氏親は駿河本国内においても検地を実施して、領国の一円支配を推し進め、安倍金山を開発して国力を高めました。
早雲は更に兵を進めて三河国岩津城の松平氏を攻め、甲斐国にも出兵して武田氏と戦ってます。
一方、氏親は早雲の関東進出にも協力して両上杉合戦に介入、扇谷上杉氏に味方して山内上杉氏と戦い、
1504年の武蔵国立河原の戦いに早雲とともに出陣して関東管領上杉顕定を破りました。
1505年頃に中御門宣胤の娘(後の寿桂尼)を正室に迎えます。
1509年以降は早雲の今川家の武将として活動がなくなっています。
この頃に早雲は政治的に今川家から独立したようで、以後は関東進出を本格化させています。
1511年に尾張守護斯波義達が今川方の刑部城(浜松市)を攻め、氏親が出陣してこれを撃退、
斯波義達はなおも攻撃を続け、遠江国での斯波氏との戦いが激化しました。
永正13年(1516年)に引馬城(浜松市)の大河内貞綱が今川家に背き、斯波義達に加わりました。
しかし、氏親は出陣して引馬城を包囲し、安倍金山の鉱夫を用いて坑道を掘って水の手を絶って降伏させたのです。
大河内貞綱は討ち死にし、斯波義達は出家して降伏し、尾張国へ送り返され、遠江国が平定されたのです。
また、1515年には、大井信達の反乱に味方して甲斐国勝山城を占拠して甲斐国守護武田信虎と戦っています。
1517年氏親は信虎と和議を結び撤兵し、大井信達は信虎に降伏しました。
その後も、たびたび甲斐国への侵攻を行い、武田氏との対立が続きます。
氏親は公家の娘である寿桂尼との結婚によって京とのつながりが強まり、京の文化を駿府に取り入れました。
氏親自身も和歌と連歌を特に好みました。
死の2ヶ月前に戦国時代の代表的な分国法『今川仮名目録』を制定しています。
嫡男氏輝がまだ成人していないため、家臣の争いを抑える目的でした。
氏親は島津日新斎や武田信虎とともに守護家の戦国大名化を成功させた今川家の中興の祖なのです。


今川氏輝
今川家第八代当主。
父の死によって家督を継ぎ、1532年頃から、氏輝は親政を開始しています。
1532年には遠江において検地を行ない、朝廷に献上物を送って京との関係強化に務めました。
1535年に相模の北条氏綱と連携して、甲斐の武田信虎と戦っています。
聡明な若き当主として活躍していましたが、
不慮の死を遂げた松平清康の死で混乱する三河侵攻の準備を整える途中で、1536年急死してしまいました。
享年24。
この突然死には諸説があり、一説では毒殺説も疑われています。
氏輝は家臣団編成で初めて「馬廻衆」を創設したり、領国においての流通を重要視して商人を積極的に保護したりなど、内政・軍事共に大きな結果を残しています。


今川義元
今川家九代当主。
文武に通じた教養人で優れた内政手腕を持ち「海道一の弓取り」といわれました。
妻は武田信虎の娘である定恵院で、義元は武田信玄の義兄にあたります。
領国経営や外征、外交など多岐に渡る才能を発揮して今川氏の戦国大名への転身をさらに飛躍させ
所領も駿河・遠江・三河から尾張の一部にまで拡大し『天下に最も近い男』と称されました。
実の所、戦国時代において天下を目指していた大名というのはほんの一握りで、大多数は地元制圧で満足していたようです。
そんな中、今川家は明らかに天下を意識しており、義元が生きている間は、周囲の誰もが義元こそが天下人だと認識していました。
生まれたときはすでに同母兄で、のちに八代当主となる今川氏輝がいたため、
4才で仏門に出されて臨済宗の駿河富士郡瀬古の善徳寺に預けられ、
教育係につけられた今川一族出身の禅僧・太原雪斎とともに京都に上って学びました。
1536年に氏輝が急死したために駿河に戻り、異母兄で同じく出家していた玄広恵探との間で家督争いとなるが、雪斎の尽力で勝利しました。
この花倉の乱と呼ばれる家督争いを経て、還俗して今川家九代当主・駿河守護となり、義元と名乗りました。
1537年、兄の時代までの宿敵であった武田信虎の娘(定恵院)と結婚し、
甲斐(山梨県)の武田氏と同盟を結んでいます。
そのため、かえって旧来の縁戚であった北条家と盟が途絶え、争う事になりました。
北条家では1541年に氏綱が死去し、北条氏康が家督を継いでいたが、
義元は氏康と同じく敵対する上杉憲政と1545年に同盟を結んで連携して氏康を攻めました。
その結果、義元と氏康は武田信玄の仲介により、
北条家の河東郡を今川家に返還するという、義元に有利な条件で和睦しています。
1551年、氏康によって興国寺城を奪われたものの、すぐに奪還しています。
三河においても、尾張の織田信秀の進出により圧迫を受けた西三河の松平広忠の帰順を受け、
松平広忠の嫡男・竹千代(のちの徳川家康)を人質に迎え入れようとしたのですが、
護送を請け負った三河・田原城の国人領主戸田康光が裏切って護送中の竹千代を敵方の織田氏に送り届けてしまった。
これは、前年に義元が戸田氏の一族である戸田宣成、戸田吉光を滅ぼしたため、
これに憤った戸田宗家の当主であった康光が反乱を起こしたものでした。
これに対し、義元は戸田宗家をも滅ぼし、その居城であった田原城に朝比奈氏を入れました。
1548年、義元の三河進出に危機感を覚えた織田信秀が三河に侵攻してきましたが、
義元の重臣である太原雪斎・朝比奈泰能らを大将とした今川軍は織田軍に大勝し、織田家の勢力を事実上、三河から駆逐しました。
1549年、松平広忠が家臣によって暗殺されると、義元は今川軍を岡崎城に送り込んで、
事実上松平家の所領とその支配下にあった三河の国人領主を直接支配下に組み入れ、
駿河・遠江・三河の3ヶ国にまたがる勢力を築き上げ、「海道一の弓取り」などと称された。
また、織田方の三河安祥城を攻略し、織田信秀の庶長子にあたる城将・織田信広を捕らえ、人質交換によって竹千代を奪還しました。
1551年に信秀が死去すると、家督相続をめぐって動揺する織田家に揺さぶりをかけ、
尾張東部の知多郡・愛知郡、更に海西郡等にも勢力を延ばして、版図は90万石に達したとされています。
更に1552年には父の定めた今川仮名目録に追加法を加え、室町幕府が定めた守護使不入地の廃止を宣言、
守護大名としての今川氏と室町幕府間に残された関係を完全に断ち切ったのです。
1554年、嫡子・氏真に北条氏康の娘(後の早川殿)を縁組し、
武田氏・北条氏と互いに婚姻関係を結んで甲相駿三国同盟を結成しました。
これにより後顧の憂いを断ち、天下取りへ進む事になります。
また、1558年からは氏真と政務の分担を図って、後継者への配慮等も見られます。
統治においては駿河・遠江・三河の3カ国にかけて大規模な検地を行ない、今川家の全盛期を築き上げたのです。
1560年2万2000の軍を率いて尾張への侵攻を開始。
尾張を平定し、上洛への足掛りとするはずでした。
兵力差は圧倒的、その器量は武田信玄や北条氏康ですら一目を置いた程。
ただ一つ、義元に誤算があったとすれば
織田信長は桁外れに強かった、というただそれだけの事でした。
通説では奇襲戦法とされていますが、近年の研究で、正面からの兵のぶつかり合いと修正されています。
信長公記によれば、今川軍は丸根・鷲津砦を攻撃した直後で疲れきっているはずであり、
戦場に到着したばかりの新手の織田軍がしかければたやすく打ち破れるはずであるという主旨の発言をしている事から正面攻撃であったというわけですね。
こうして戦国の覇王の踏み台とされ、後世に不当な評価を被る事になったのです。
ちなみにピザ麻呂のように言われている義元ですが、実際は美男子だったそうですよ。
今川義元 統率90 武勇48 知略79 政治97



今川氏真
今川家十代当主。
予想外の父の死によって家督を継ぎましが、
主だった家臣は皆戦死、その為に国内は反乱祭りで
松平元康が義元から受けた恩を忘れ今川より独立し、徳川家康となりました。
祖母寿桂尼の後見を受けて領国の安定を図り、1566年4月に富士大宮を楽市とし、
徳政の実施や役の免除などの産業振興政策を行い国力増強に力を注ぎました。
ところが、今川の衰退をみて、武田信玄が駿河へ進軍してきたのです。
上杉家と同盟し対抗しましたが、織田・徳川と盟を結んでいた武田家には決定打となりませんでした。
掛川城が徳川に包囲されるも、半年近く篭城戦を続け抵抗しました。
しかし、徳川・武田の両軍を相手にしては耐え切れず、戦国大名今川家は滅亡したのです。
その後は徳川家康や北条氏康らの庇護を受け、1614年まで生存。
ちなみに文化人としての名声はとても高いのです。
和歌は権大納言冷泉為和らより学び、現在も1000首を超える歌が残され、後水尾天皇選の集外三十六歌仙にも名を連ねています。
さらに飛鳥井流宗家に直伝された蹴鞠など技芸に通じています。
また、塚原卜伝に新当流剣術を学び、自身も今川流剣術の開祖として、何気に剣豪だったりします。
無能の代名詞のように言われていますが、実際は内政に手腕を発揮しています。
彼の不運は、周囲を名だたる名将達に囲まれ、しかも地盤がガタガタだった事に尽きますね。
今川氏真 統率58 武勇72 知略51 政治84


寿桂尼
今川氏親の正室、氏輝や義元の母。じゅけいに、と読みます。
病床の氏親を補佐し、1526年4月に制定された今川氏の分国法である『今川仮名目録』の制定にも関わっていました。
1526年、氏親が病死して氏輝が家督を継いだとき、氏輝はまだ14歳という若年だったので、
氏輝が16歳になるまでの2年間、寿桂尼が今川氏の政務を取り仕切っっていました。
このため、「女戦国大名、尼御台」と呼ばれています。
1560年に桶狭間の戦いで義元が戦死して、
孫の今川氏真が当主となった後も政治に関わっていたという、今川家を屋台骨から支えていた人です。
今川家没落の最中の1568年に亡くなりました。


太原雪斎
今川家に仕える怪物坊主。たいげんせっさい、と読みます。
若き頃から秀才と言われ、義元の教育係として氏親自ら指名したほどの人物でした。
花倉の乱にて、義元が当主となれるように尽力し、その功績により、
当主となった今川義元は雪斎を厚く信頼し、政治・軍事における最高顧問として重用したのです。
雪斎は駿府臨済寺の住持として宗教的な影響力を持ちながら、
今川家の執政とも呼ばれ、政治・軍事・外交に秀でた手腕で義元を補佐しました。
1537年に武田氏と婚姻同盟を締結させ、駿東における北条氏との折衝に尽力し、 1547年には田原城攻略の指揮を執ります。
1548年の小豆坂の戦いでも総大将として尾張の虎と呼ばれた織田信秀を撃破しています。
1549年には安祥城を攻めて織田信広を捕らえ、この時織田氏に奪われていた人質の松平竹千代を取り戻しました。
1553年、今川氏の分国法である今川仮名目録追加21箇条の制定、
1554年には、武田家・北条家との甲相駿三国同盟の締結しました。
この他に雪斎は臨済宗を中心とした領内における寺社・宗教の統制や、
在来商人を保護する商業政策などもおこなって、今川氏の最盛期に大きく貢献しました。
豊かな教養人でもあり『歴代序略』という著書を残しています。



と長々書きましたが、これを見ていただければオールおっけぃです!
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1211849

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comment

Secret

今川焼き・・・(´・ω・`)

プリ

寿桂尼~ 寿桂尼~ 寿桂尼~ おばあちゃん♪

覇王伝今川家所属でプリ殿にこの動画を教えた人ですハジメマシテ

エヴァ

ハジメマシテ!
おかげさまで楽しい動画を見れました
プロフィール

エヴァンジェル

Author:エヴァンジェル
エウロス鯖の冒険者です。
大航海に関係ない事ばかりです。
暇で仕方がない時に更新します。



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