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大航海時代名将百選④

|ω・`) 百選最終回です。
今回はインド方面の残りと、東南アジア、東アジア、そして新大陸(中南米)から紹介します。
身近なところなので有名人が多く出てきますね。

シヴァージー・ボーンスレー
父がアーディル・シャーヒー朝ビージャプル王国に仕えると母と共にプネーに残りますが、
1648年には公然とビージャプル王国に叛旗を翻し、北コンカン地方を押さえました。
父の逮捕にもかかわらず独立の動きをやめず、1659年にはビージャプル王国の軍を破り、
1663年にムガール朝のデカン総督官邸を襲って総督を負傷させました。
1665年頃デカン総督に任命されたアンベール王ジャイ・シングに敗れて降伏し、
ムガール朝に仕えますが、アウラングゼーブ帝の勘気に触れて拘禁されました。
洗濯物入れの籠に隠れて脱出に成功したシヴァージーは再びムガール朝との戦いを開始し、
1674年に古式に則ってマラータ王国の国王に即位しました。
その後も戦いに明け暮れましたが1680年に死去しました。


ナーディル・シャー
アフシャール朝ペルシアの建国者。「東洋のナポレオン」「第二のアレクサンドロス」「最後の中世的英雄」。
キジルバシュ系アフシャール部族連合の支配者となっていたナーディルは
滅びたサファヴィー朝の王子タフマースプ2世を保護して忠誠を誓い、
アフシャール部族連合軍とクルド族を率いてアフガン人に連戦連勝を重ねます。
1729年にはダムガーンの会戦でアフガン人を撃破して首都イスファハーンを奪回しました。
シャー(国王)として推戴されたタフマースプ2世はナーディルのあまりの活躍ぶりを恐れ、
ナーディルが反乱鎮圧のため不在となったあいだに単独でオスマン帝国に戦いを挑んでしまいます。
当然のようにタフマースプは大敗を喫し、グルジア・アルメニアの割譲を強いられました。
これに激怒したナーディルはタフマースプを廃して追放し、その子で生後8ヶ月のアッバースを擁立して摂政となりました。
1733年、ナーディルはバグダードを攻囲し、36年までにはオスマン帝国に奪われた領域をほぼ取り返しました。
また同時期カスピ海南部に進駐したロシア軍をもピョートル大帝の死に乗じて国外に駆逐し、37年にはバクーとデルベントをロシアから奪還しています。
36年、幼帝アッバース3世が没したためナーディルは後継者選定会議を招集。
席上ナーディル自身を帝位に推す声が高まったため、一ヶ月間辞退してから、
国民がシーア主義を捨てることを条件として即位し、アフシャール朝が成立しました。
ナーディルはスンナ派やシーア派の争いを嫌い、イスラム諸派に加えてキリスト教をも含めた宗教融合を企図していたとされ、
「可能であれば新宗教を創始する」とすら公言したそうです。
その後ナーディルはバクティアーリー族を討ち、アフガニスタンを征討。
その残党をかくまったという口実でインドに侵入し、カルナールで大砲を使ってムガル帝国の大軍を殲滅。
39年にはデリーを占領し、三日間にわたって大掠奪を繰り広げ、市民十万人を虐殺。
巨大なダイヤモンド「コーイ・ヌール」や「孔雀の玉座」をはじめとする莫大な財宝と、ムガール帝国のアフガニスタン属州を奪い去りました。
インド遠征の頃からナーディルの性格は従来以上に凶暴の度を増しています。
41年には暗殺未遂事件によって長子リダー・クリーを盲目とし、関係者を大量処刑。
45年にもマシュハドの有力者100人あまりを粛清し、インド遠征中に殺害された弟の復讐のためにレスギー族を攻撃。
インドから帰還後、ナーディルは中央アジアで再びウズベク族を撃破し、
転じてペルシア湾に勢力を拡大し、再びオスマン帝国軍と戦い、1745年にカルスで徹底的な勝利をおさめました。
その後1747年にクルド族反乱の報を受けて討伐に赴くものの、途中宿営中に暗殺されました。


ボロムラーチャー2世
アユタヤ朝第8代国王。
インタラーチャー1世の死後、3人の息子の間で王位が争われたが、サームプラヤー王子が勝利し、即位してボロムラーチャー王と名乗りました。
ボロムラーチャーは、徹底したカンボジア攻撃を行い、カンボジア王は最終的に王都アンコールを放棄して東方に逃れ、
ここに500年続いたアンコール帝国は崩壊しました。
この際カンボジアから連行した多くの捕虜により、アユタヤ宮廷はバラモンの影響を強く受けることになります。
王は神であるとする神王思想や位階田(サックディナー)制度の導入、宮廷儀礼のバラモン化もそのひとつで、
その後のアユタヤ宮廷はクメール人官僚が勢力を伸ばすこととなりました。
また1438年、スコータイ王が死去すると同王家の血を引くボロムラーチャーの息子ラーメースワン王子が家督を継ぎ、
スコータイはアユタヤの1州として併合されました。


ナレスワン大王 Naresuen
二度にわたりビルマに遠征、95年にはカンボジアも征服。
海外貿易も積極的にすすめポルトガルやスペインとも交易をし、アユタヤを繁栄に導いた王です。
ムエタイの創始者という変わった業績の持ち主でもあります。
彼は自らビルマ兵を何十人もそのムエタイの技で打ち殺し、「全身に毒をもつ王子」と恐れました。


永楽帝朱棣
明の第3代皇帝。
靖難の変にて絶望的状況から勝ち抜き、皇位を簒奪した超人です。
数々の遠征を行い版図を広げ、明の最盛期を築きました。
北はヘイロン川から南はアンナン、西はチベット・チンハイ方面まで領土を広げました。
中国の歴史、世界の歴史の中でも際立った軍事手腕の持ち主と言っていいでしょう。


鄭和
西欧に先駆け大船団を指揮して世界を航海して回った、大航海時代の先駆者です。
探検家じゃないの?とか、宦官じゃないの?とか思うかもしれませんが、
靖難の変にて多大な活躍をして永楽帝から信認されていた人なのですね。
セイロンに寄航した時に現地の国王が積荷を奪おうと襲撃をかけたものの鮮やかに切り抜けたとか。
彼の偉業が認められていれば中国の歴史は大きく変わっていた事でしょう。


鄭成功
清に滅ぼされようとしていた明の為に戦った民族的英雄です。俗称は国姓爺。
日本・琉球・ベトナム・コーチン・シャムタイ・ルソンなどとの間に貿易を行うとともに、
大陸への反攻を連年展開、軍事力を蓄えて南京へ北伐をしますが、敗北。
南京での敗戦の後、台湾を拠点として終生に渡って戦い続けました。


秦良玉
明末の女将軍。夫の馬千乗は後漢の伏波将軍馬援、そして、三国時代の馬超の末裔を名乗っていました。
その麾下の白桿兵は屈指の猛兵として知られています。
しかし、馬千乗が冤罪で囚われて獄死したため、秦良玉は夫の役職を継ぎ、その後四川都督僉事を賜っています。
秦良玉は戦争で息子や兄を失ったにもかかわらず、夫の残した領土と民衆を守るために明に忠節を尽くし、
反乱軍でさえ秦良玉の治める地域には入り込めなかったのです。
匪賊討伐のために各地を転戦し、清と戦い、張献忠の招撫にも応じず頑強に抵抗しました。
歴史上、個人の軍事的功績のみで正史に単独の伝を立てられた女性は彼女だけだそうです。


織田信長
第六天魔王。日本史上最大の革命者。大事な決戦では必ず雨が降った事から「梅雨将軍」とも呼ばれています。
桶狭間の戦いを皮切りに、弱小大名から戦国の覇者へと駆け上がった事は誰もが知るところ。
それも戦国時代の領土拡大の基準からみれば、凄まじい速度で成長しています。
信長の特徴を言えば、戦術家ではなく戦略家、さらにいえば軍政家となるでしょう。
家柄等にとらわれず、徹底した実力主義の人材登用で戦国最強の家臣団を作り上げ組織を活性化させる一方で、
無能な者はたとえ昔からの家臣であっても名門貴族であっても禄を召し上げられて追放されました。
徹底した合理主義者で、無宗教を貫きながらも宣教師から西欧の知識は取り入れたり、
六角家の楽市楽座を取り入れたり、良いものはなんでも使うという姿勢が見て取れます。
とにかく日本史の中でも、明らかに異彩を放っている人物ですね。
多大な業績は戦争体勢の構築や内政統治にこそあり、戦術家としての手腕を疑問視する人もいるでしょう。
しかし、桶狭間の戦いはまさに神がかり的采配で圧倒的な不利を覆しました。
天王寺の戦いでは5倍の敵を相手に何の準備もなく勝利したりと、采配に関して疑いようもない名将ですね。
その他にも幾多の戦場において、兵の用意が間に合わず寡兵で突撃、などという場面もあります。
基本的には信長は戦略家であり、相手よりも軍事的優位に立った戦争が得意なのですけどね。
しかし、大将でありながらも、敵の大将格を自ら討ち取り、鉄砲片手に殿隊に入って船上での銃技で敵軍を脅かしたり、
敵の砦に少数で夜襲をかけて占拠したり、大量の鉄砲を擁する5倍の敵相手に陣頭指揮してたり。
本能寺においての奮戦は信長公記のみならず、フロイスもその事を記述しています。
こうした武勇伝も数々残っていたりして、意外と猛将的な面もありますね。
また、鉄砲戦術の開発等の新時代への対応についても評価できるところですね。
とはいえ、信長公の最も秀でていた分野は内政面の改革等に代表される発想の柔軟性です。
創造性や桁外れの野望、文化を育み芸術を愛す、悪しき風習の断絶と実力主義の人材登用、
軍事手腕等よりも特筆すべきはその精神的ステータスだと思います。
日本の歴史を振り返ってみても、後にも先にもこれ程のリーダーは現れていません。
天正元年の越前朝倉攻めの時に、信長が敵の退却を予測して配下に追い討ちをかけるように指示を出しました。
しかし配下の武将が迅速に行動できず、結局信長の部隊だけで追撃したとか。
当然ながら烈火のごとく怒る信長様に、佐久間信盛はこう答えました。
「そうはおっしゃられても我々ほど優秀な家臣はなかなか居ないものでござる」



豊臣秀吉
太閤。立身出世の代名詞、農民生まれの天下人。
信長以上に名将としてのイメージがない事でしょうけど、秀吉の戦歴は西欧の名将にも比類するものです。
奇抜な戦法を用いて数々の合戦を勝ち抜いて、実力主義の織田家中にあって最も信長の信頼を得ています。
実際に敗北したのは小牧長久手くらいのもので、それも史実では大した敗戦とは言えなかったりします。
攻城戦の達人で水攻め兵糧攻めなど自軍を無駄に殺さない戦い方をしていますね。
10万を超える大軍団を自分の手足のごとく指揮した秀吉に比べ、
家康は4万程度の関が原ですら直轄兵を指揮するので精一杯でした。
予断ですが、ルイス・フロイスは著書で秀吉を織田家中随一の猛将である、と評しています。
晩年はすっかりボケて、明への出兵を試みて失敗するわけですが、
そもそも秀吉は指揮してなかったし、敗因は軍事力不足よりも補給問題にあったとか。
家康は領地に引き篭もってサボってましたしw
以前より朝鮮出兵等という誤った記述もありますが、朝鮮なんて通りすがりのついでに攻められたに過ぎません。
本来の目的は明を打ち倒すことで、当時の日本の軍事力は西欧の強国にも匹敵するものだったのですね。
世界一の鉄砲保有数で、戦乱続きの為に兵士の錬度は高く、築城などの文化レベルにしても西洋諸国を驚かせるものでした。
もし秀吉がボケていなかったか、信長が生きていたならば、中国大陸に進出した日本の歴史があったのかもしれませんね。


毛利元就
中国地方の覇者。260戦近く戦いほぼ全てを勝ち抜いた戦国随一の戦歴の持ち主です。
当時の戦国屈指の大国であった大内家と隣接していて、その部下のような立場でした。
吹けば飛ぶような弱小大名でありながら、権謀術数を駆使して、勝利に次ぐ勝利を重ねのし上がった戦国最大の知将ですね。
「三本の矢の人」としか世間では知られていませんが、戦国最強の一人に数えられます。


島津義弘
九州の最南勢力、名門島津家の一族です。
日向木崎原の戦いでは伊東義祐が大軍を率いて攻めてきましたが、これに対して寡兵で打ち破るなど、勇猛ぶりを発揮して島津氏の勢力拡大に貢献しました。
1577年には伊東義祐を日向から追放し、1578年の耳川の戦いにも参加し、大友宗麟軍を破る武功を挙げています。
1585年には阿蘇氏を攻めて降伏させるなど、兄に代わって島津軍の総大将として指揮を執る事も多かったとか。
天正14年(1586年)には豊後に侵攻して大友領を侵略し、大友を滅亡の危機に陥れました。
しかし、大友が豊臣軍に救援を要請し、九州征伐の戦いが始まりました。
義弘は島津家の総力をあげて奮戦しましたが、絶望的な戦力差は覆しようもなく、敗北。
その後、兄・義久が降伏した後でも徹底抗戦を主張したが、兄の懸命な説得により、
子の島津久保を人質として差し出すことで、ようやく降伏しました。
なお、このときに兄から家督を譲られて島津氏の第17代当主になったとされていますが、
義久はなおも政治・軍事の実権を掌握していたので、恐らくは形式的な家督譲渡であったものと推測されます。
その後は一変して豊臣政権に対しては協力的で、1592年の文禄の役、1597年の慶長の役のいずれも朝鮮へ渡海し参戦しています。
慶長の役では、藤堂高虎らの水軍と連携して元均率いる朝鮮水軍を挟み撃ちにして壊滅的打撃を与え、敵将・元均を討ち取りました。
慶長3年(1598年)の泗川の戦いでは董一元率いる明軍4万~20万人とすら呼ばれる大軍を、7000人の寡兵で打ち破り、
敵兵を斬首すること数千に及ぶという大戦果を挙げ、義弘率いる島津軍は「鬼石曼子(おにしまづ)」と呼ばれて恐れられました。
慶長の役最後の大規模海戦となった露梁海戦では明・朝鮮水軍の待ち伏せによって大きな損害を被り退却せざるを得ませんでしたが、
相手にも朝鮮水軍の主将・李舜臣や明水軍の副将・子龍が戦死するといった多大な損害を与えています。
そして関が原の戦いでは敗走を始めた味方の軍のため、島津軍1500人は退路を遮断され、敵中に孤立することになってしまった時に、
大胆にも数万の敵の大軍の中を敵中突破するという離れ業を見せています。
東軍の前線部隊である福島正則軍の脇を一気に抜け、徳川家康の本陣に接近しながら、伊勢街道を南下しました。
島津勢の猛攻に対して、井伊直政、本多忠勝、松平忠吉らが追するも、追撃の大将だった井伊直政が激しい戦闘により重傷を負い、その傷が元で後に死亡しています。
激しい退却戦の結果、多くの将兵も犠牲になったが、東軍も井伊直政・松平忠吉の負傷により追撃の速度が緩んだことや、
まもなく家康から追撃中止の命が出されたこともあり、義弘は信じられない強引な敵中突破に成功し薩摩へと逃れました。
関が原の戦いではお家事情もあって1500人の兵士しか率いていなかったのですが、生きて薩摩に戻ったのはわずか80数名だったといわれています。
義理人情に厚く、医術や学問にも優れ、敵味方からも多大な尊敬を集めています。


ヌルハチ
清の初代皇帝。
女真の抗争があまりにも激しすぎると思った明の遼東司令官李成梁は
一つ明が制御できる程の大きな勢力を作り、その後ろ盾になる事で女真を治めようとし、これに選ばれたのがヌルハチでした。
ヌルハチが選ばれた事の理由としてはヌルハチの部族は祖父の代から明に対して友好的であったからでしょう。
李成梁の思惑は上手く行き、ヌルハチは女真の中の大勢力となり、1589年には建州女真5部を統一しました。
それと同時に李成梁の懐に入る賄賂の量も大幅に増え、これに気を良くしたのかヌルハチの統御の事を忘れていました。
ヌルハチの急激な台頭に危機感を抱いた海西女真は結束してヌルハチに領土割譲を求めたがヌルハチはこれをはねつけました。
この頃から自らを満州と呼び始めたようです。
1593年にヌルハチ率いる満州軍は海西女真を中心とした九部族連合軍と激突し、完勝。
この戦いはグレの戦いと呼ばれ、これにより女真の諸部族はヌルハチに従うものが多くなり、明はヌルハチに対し竜虎将軍の官職を授けました。
この時期は豊臣秀吉による文禄・慶長の役で明がその対応に忙殺されていた事もあり、明による介入は少なかったのです。
そこをついて1599年にヌルハチは敵対した海西女真のハダ部を滅ぼしました。
この前年に秀吉軍が撤兵した事もあり、ようやく明はヌルハチに危機感を抱き始め、
海西女真のイェヘ部の後押しをする事でヌルハチに対抗しようとしました。
1616年、ヌルハチはハーンの地位に着き国号を金とし、元号を天命としました。
前後してヌルハチは女真の民族名を満州に改め、満州文字を定め、八旗制を創始して国家の基礎を打ち立てました。
1618年、ヌルハチは七大恨と呼ばれる文書を掲げ、明を攻めることを決定しました。
この文書の中には明がイェヘに味方して、満州につらく当たる事や、祖父と父が明に誤殺されたことなどが書かれています。
明はイェヘ部と朝鮮の兵を配下に47万と号する兵を満州討伐に送り出し、翌年撫順近くのサルフで激突。
数の上からでは満州の不利であったが、明の将軍が功を焦って突出し、各個撃破できた事と戦闘中に砂塵が舞い上がり、
これに乗じて明へ奇襲をかけることが出来た事などが幸いし、大勝しました。
これはサルフの戦いと呼ばれています。
サルフで明軍に大打撃を与えたヌルハチは、後ろ盾を失ったイェヘを吸収し、完全に女真を統一しました。
勢いに乗ったヌルハチは瀋陽・遼陽を相次いで陥落させ、遼陽に遷都し、ついで瀋陽に遷都します。
1626年、連戦連勝のヌルハチは明の領内に攻め入るために山海関を陥落させようとしました。
ところがその手前の寧遠城に名将袁崇煥がポルトガル製の紅夷大砲を大量に並べて満州軍を迎え撃ったのです。
紅夷大砲の威力に満州軍は散々に討ち減らされ退却しました
この時にヌルハチは傷を負い、これが元で死去したそうです。


エセン・ハーン
15世紀中頃のオイラトの首長(モンゴル民族の一つ)。オイラトの最大版図を築きあげました。
1440年と1445年、エセンはゴビ砂漠とタクラマカン砂漠の間のシルクロード上にあるオアシス都市、ハミへ2度の遠征を行いました。
これによりエセンの勢力は中央アジア方面に広がり、東トルキスタンを支配するモグーリスタン・ハン国やカザフ草原のウズベクとも戦ったと伝えられています。
また1446年にはモンゴル高原東部の興安嶺方面に進出し、
同地位のモンゴル系集団ウリヤンハン三衛を服属させ、さらに興安嶺を越えて女直、朝鮮にまで勢力を伸ばしました。
明との間では、父の時代以来の友好関係を保ち、朝貢使節を盛んに派遣しています。
これは、交易を主要な収入源とする遊牧国家の存立のためには朝貢貿易による中国物産の入手が不可欠だったからであり、
明の側から見れば朝貢によってモンゴル高原の諸勢力を個々に手なずけて勢力の分断と均衡をはかり、
また朝貢に対する恩賞の名目で与える金品によって平和を購う意図がありました。
1448年の入朝を機に明は財政負担の大きさから寛大な態度を改め、恩賞の額を切り下げました。
しかしオイラトのエセンの側にとっては、恩賞として与えられる中国の物産は、
急速に膨張したオイラト勢力の統一を保つために不可欠だったので、明の政策転換はとうてい受け入れられるものではなかったのです。
また、明側の交渉者はエセンの息子と中国の皇女を婚姻させるといった約束をしていたにもかかわらず、
こうした約束の存在を関知していなかった明の朝廷はこれを否認したため、エセンの怒りを買いました。
1449年、エセンは貿易の復活と侮辱に対する報復を果たすため、トクトア・ブハ・ハーンと協同して明へと侵攻します。
これに対して、若く血気盛んであった明の皇帝正統帝は、
側近の王振の出撃すべしとの進言を受け入れて自ら山西へ親征。
8月初頭、北京を出撃した50万人規模の皇帝軍は同月末に大同に到着しましたが、
このときすでに大同はエセンに襲われた後で、2万人規模のオイラト軍は掠奪を終えて引き上げていました。
大同は北方を長城によって護られた国境内の都市であったので、
オイラト軍はこれまでの侵攻のように主に国境地帯を襲撃するだけだと思い込んでいた皇帝軍は
見込みを外され、オイラトの攻撃を避けて大同から北京に戻ることにしました。
しかし悪天候で大軍の行軍がはかどらないうちに
皇帝軍の撤退を察知したオイラトの騎兵部隊は4日にわたって長城を越えて明軍の背後を繰り返し襲い、宣府にいた明の殿軍を破りました。
ようやく宣府の東方近くにある土木堡に達していた皇帝の軍は、ここで2万のオイラト軍に包囲された。
9月5日、明軍は数十万人と言われる戦死者を出し、兵士だけでなく従軍の大官たちを含め、正統帝自身を除いたほとんどが全滅しています。
正統帝は捕縛されて、宣府の近くにいたエセンの幕営に連行されました。
エセンは正統帝の身代金を明朝に要求したが、従軍して全滅した大官たちにかわって政府の主導権を握った兵部尚書于謙は、身代金の支払を拒絶。
于謙は正統帝の弟を立て、景泰帝として即位させました。
あてがはずれたエセンは、再び明に侵攻して北京を包囲しました。
于謙は北京の城壁の守りを固めて、オイラト騎兵の矢による攻撃を封じただけでなく、
わざと城門を開いて城内に入り込んだオイラト兵の退路を断って殺したり、
エセンの義弟を殺したりして、オイラトの戦意をくじく策をとりました。
エセンは5日間の包囲の末に兵を引き上げ、ついには身代金の要求を諦め、翌1450年の秋、エセンは正統帝を無条件で明に送り返しました。
オイラトの経済は朝貢貿易に依存していたため、エセンはなんとしてでも和議を結んで貿易を再開せざるを得ず、
正統帝の身代金問題の長期化は、オイラトにおけるエセンの統治力を脅かすだけだからですね。


ドルゴン
多爾袞。
1643年、先帝ホンタイジが死ぬと、皇位をめぐりドルゴンとその同腹の弟であるアジゲとドドの派と
ホンタイジの長子粛親王ホーゲを支持する派に分かれて対立していました。
結局、清朝が二分することを避けるためドルゴン、ホーゲ双方が皇位につかず、
ホンタイジの第9子であるフリンが6歳で順治帝として即位。
順治初期にドルゴンは摂政王として実権を握り、ホーゲら政敵を粛清し権力を手中にしました。
翌年の1644年に明が李自成によって滅ぼされると、
対清の最前線である山海関の守将であった呉三桂は清に対して、明の仇である李自成を討つための援軍を求め、
ドルゴンはこれに答えて自分と弟たちの支配下にある軍と皇帝直属軍を率いて南下して、李自成軍を破りました。
李自成軍が逃げた後に北京に入った清軍は明の最後の皇帝である崇禎帝を厚く弔い、
減税・特赦を行うなど明の遺民の心情を慰める一方で、満州族の風習である弁髪を漢民族に強制し、
「髪を留める者は首を留めず」と言われるような苛烈な政策で支配を固めました。


于謙
皇帝英宗が捕虜になったという報を聞くと北京は上下ともに大混乱となりました。
そして副都である南京への遷都論が徐などから沸き起こったが、于謙はこれに反対して北京の死守を主張。
その上で、皇太后孫氏の了承を取り付けた上で、監国として皇帝代行となっていた英宗の弟の朱祁の即位を取り決めました。
これが代宗景泰帝です。
英宗は太上皇帝とされ、その子の朱見深が皇太子となりました。
英宗を虜にしているエセンが居庸関を越えて北京に迫ってきたが、
于謙のもとで明軍は攻勢に出てエセンの軍勢を撃退、エセンは長城の外に引き返していきました。
戦いが長期化すると様々な事情から不利になったエセンは態度を軟化させ、
1450年になって明とエセンは講和を結び、無条件で英宗を送還されました。
英宗はそのまま宮中に軟禁されたが景泰帝はそのまま帝位に在り続け、
于謙の指導で軍制改革を行い、再び土木の変が起きないように国政の引き締めを行ったのです。


袁崇煥
明末期の名将。
寧遠城を築城し、群臣の反対を押し切って、ポルトガルから最新式の大砲を取り寄せ、
城に設置して、充分に兵を訓練し有事に備えました。
鉄壁のこの城で、攻め寄せてきたヌルハチの後金軍を撃退し、
その功績で兵部侍郎、遼東巡撫、主持関外軍事に任じられました。
翌年、寧遠城と錦州城で、ホンタイジも撃退したため、1628年には兵部尚書、右副都御史となりました。
ホンタイジは長城を遠回りして北京を攻めることに方針を変え、
明国内に間諜を送り、宦官を買収し、袁崇煥が謀反をくわだてているという噂を流すと、
猜疑心の強い崇禎帝は、いとも簡単にその噂を信じて、
北京防衛のために急いで駆けつけた袁崇煥を、謀叛の疑いありとして凌遅刑にしてしまうのです。
このことは、崇禎帝の代での明滅亡を決定的にしてしまいました。
この人に限らず中国の王やら皇帝やらは大体噂を信じて忠臣名将を殺害しちゃってますね、
お国柄というか民族性というか、馬鹿じゃないの?って思えるほど噂を信じやすいです。


戚継光
倭寇及びモンゴルと戦ってともに戦果を挙げた中国史上でも珍しい水陸両用の名将です。
字は元敬、諡は武毅。
竜行剣という剣法の開祖として伝えられています。
中国沿岸を中心に密貿易を行っていた後期倭寇の討伐に従事いていました。
後期倭寇は、日本人はわずかしかおらず中国人が主となって海賊行為を働いていたようです。
前期倭寇は「世宗実録」(西暦1446年)の記述によれば、
倭寇のうち日本人は一割程度に過ぎず、ほかは日本人に成りすました朝鮮半島の民であったと記録されています。
このあたりは深く調べると「かの半島」の暗い歴史にぶつかるので興味のある方は「倭寇 朝鮮」でグーグル先生にお尋ねしてください。
さて、それはともかく、戚継光は「戚家軍」と呼ばれる自身の精兵、水軍を組織して、胡宗憲の指揮下で倭寇を討伐しました。
1567年に海禁例が解かれて倭寇の活動が沈静化するとその後は北方防備に従事し、アルタン・ハンの侵入に対応することになります。
こうした武歴から内閣大学士で当時大きな権力を持っていた張居正に重用されるようになったが、
張の死後、戚の功績をねたむものから弾劾され、免職されてしまいました。
その処置は3年後に撤回されるものの、まもなく失意のうちに世を去っています。
『紀效新書』『錬兵実紀』などの兵学書も残していて、これらの兵法が清末に注目されるようになり、
太平天国の乱の鎮圧に当たった曽国藩がこれをもとに自らの軍を整備しています。
さらにしばらくして中国に対する日本の侵略がなされるようになると、
倭寇を討伐した経歴を持つ戚継光の業績を称えられる風潮が起るようになりました。


康煕帝
清朝3代皇帝。事実上の清建国者。
順治帝に山海関を明け渡して投降した呉三桂は、
その後に南に逃れた明の永暦帝を殺した事で清から功績大と認められ、皇族で無いにも拘らず親王に立てられていました。
この呉三桂を筆頭とした尚可喜、耿精忠の三人の藩王はそれぞれ雲南、広東、福建を領地としており、
領内の官吏任命権と徴税権も持っていたので独立小国家のようなものだったのですね。
康熙帝はこの三藩を廃止する事を決めましたが、廃止しようとすれば呉三桂たちは反乱を起こすと群臣の多くは反対でした。
しかし三名だけ「このまま藩を存続させればますます増長し、手に負えなくなり、結局反乱する事と同じである。どうせ同じなら今廃止したらどうか。」と言う意見を出し、康熙帝はこれを採用しました。
予想通り、呉三桂たちは清に対して反旗を翻した。
三藩軍は清の軍隊を各地で破り、台湾の鄭経(鄭成功の息子)も呼応し、
一時期は長江以南を全て奪われるなど創業間近の帝国崩壊の危機を迎えてしまうのです。
群臣は康熙帝に満州に避難する事を勧めたが、康熙帝は断固として三藩討伐の意思を変えませんでした。
呉三桂たちは「満州族を追い出して漢族の天下を取り戻そう」と言うスローガンを持って民衆に呼びかけていましたが、
そもそも漢族の王朝である明を滅ぼしたのは他ならぬ呉三桂だったので民衆は三藩を支持しませんでした。
康熙帝は漢人の周培公らを起用したことで清軍は徐々に優勢になっていき、1681年に三藩の乱を鎮圧したのです。
その二年後には台湾を制圧しています。
台湾を制圧した年に、ピョートル1世率いるロシア帝国が満州族の故地である黒竜江付近に南下してきたので
この地方の軍事力を強化し、1689年にネルチンスク条約を結びました。
中華思想によれば中国は唯一の国家であり、中国と対等な国家の存在を認めず、
国境など存在しないという建前でしたが、この原則を揺るがす内容ですね。
これには側近にいたイエズス会宣教師、フェルディナント・フェルビーストの助言があったといわれ、条約締結の際にもイエズス会士が交渉を助けています。
ただし、その後の対ロシア関係は理藩院によって処理されており、清の国内では朝貢国と同様な扱いでした。
1670年代、ジュンガル部のガルダンがオイラトの覇権を握り、さらにモンゴルのハルハ部の内紛に介入、ハルハ諸部を制圧。
1693年、ハルハの諸侯は康熙帝に保護をもとめ、康熙帝はこれに応えてガルダンと対決、みずから軍勢を率いてガルダンの軍勢を壊滅に追いやりました。
その後チベット辺りにも手を出して、清朝の繁栄を築きこの世を去りました。


王陽明
王守仁とも呼ばれます。指揮官としてよりも陽明学の祖として名高い人です。
35歳のとき、宦官劉謹の独断的な政治を批判する上奏文を、皇帝武宗に提出したが容れられず、
劉謹の恨みを買って、はるか僻地の貴州龍場駅の役人に左遷されました。
彼は、この言葉も風俗も異なる少数民族の住む地にあって、厳しい自炊生活を送りながら、
思索を続け、「龍場の大悟」といわれる新学説・陽明学を誕生させたのです。
やがて、劉謹の専横が明らかになって追放されると、
王陽明は県知事に任じられたのを皮切りに、江西巡撫や兵部尚書などの高官を歴任しました。
江西巡撫のときに地方の農民反乱や匪賊の横行に対して、民兵を組織してこれらをことごとく鎮圧。
1527年、広西で大規模な反乱が起きると、王陽明にその討伐の命が下り、彼は病気をおして討伐軍を指揮し、それらを平定しました。


黎利 Le Loi
レ・ロイ。清化(タインホア)の藍山(ランソン)の豪族。
1418年、当時ベトナムを支配していた明朝に対して叛旗を翻し、以後、勝敗を繰り返しながら1424年までゲリラ戦を続けました。
永楽帝の死後、山岳地帯を出て乂安(ゲアン)を攻め、1426年には明将王通の大軍を破って、東関城(ハノイ)に迫ります。
翌年、明は15万の援軍を派遣しますが黎利の軍はこれを撃破、王通は和睦を乞い撤退しました。
黎利は陳朝の末裔陳嵩を擁立し、明朝も彼を安南国王に封じたのですが、
1428年陳嵩は逃亡して自殺してしまったので黎利は東京(トンキン)で即位し、国号を大越と改めました。
即位後は、行政機構を整備し中央集権化を進める一方、建国の功臣を次々と粛清しました。
親族にも厳しく、甥の黎康(レ・カン)を遠ざけ、皇太子思斉(トゥ・テー)を廃して、
清化出身の母をもつ次男元龍(グエン・ロン)を後継者に選びました。


ハン・トゥア Hang Tuah
マラッカ王国初代ラクサマナ(海軍提督)。
ラクサマナはインドの叙事詩「ラーマーヤナ」の主人公ラーマの弟で武勇の誉れ高いラクシュマナのことで、
勇敢なハン・トゥアにつけられたあだ名にちなんだ官職名です。
ハン・トゥアは、海戦のみならず陸戦でも優秀な武人でした。
マレー人に語り継がれているハン・トゥアの物語によると、
彼は友人であるハン・ジュバットら5人の仲間と幼いころから海賊を退治するなど活躍し、
のちに国王に仕えることになります。
しかし、彼をねたむ役人たちに陥れられて国王に処刑を命じられ、その処罰の不当性を非難したハン・ジュバットは国王に叛旗を翻しました。
反乱の鎮圧に手を焼いた国王はハン・トゥアを許す代わりに、彼にハン・ジュバットの討伐を命じたのです。
ハン・トゥアは忠義と友情の間で思い悩むが、ついに国王の命に従うことを決意し、ハン・ジュバットとの激しい決闘の末、彼を刺し殺しました。
忠誠(ダウラト)を重んじるマレー人の価値観を示す物語なのですが、ハン・トゥアの為に叛乱まで起こした友人カワイソス。


パチャクティ・ユパンキ
タワンティンスウユ(インカ帝国)第9代のサパ・インカ(皇帝)。
彼の時代にインカ族は飛躍的に勢力を拡大し、
古代南アメリカにおける文明地域の大半を征服してアンデス山脈の覇権を握りました。
インカ帝国の歴代君主のうち実在がはっきりと確認できるのはユパンキからです。
先王ビラコチャの時代にはインカはまだクスコの谷一帯を支配する小勢力に過ぎませんでした。
あるとき強大なチャンカ族がインカ領に侵攻し、首都クスコに迫りました。
王と皇太子をはじめ支配層の多くは逃亡し、クスコにはわずか700の兵士が残るだけとなったのです。
その頃怜悧にすぎて父から嫌われた王子クシ・ユパンキは、三年間流刑地でリャマを飼って暮らしていました。
しかし彼はこの危機に際してクスコへ戻り、奮戦のすえに奇跡的な大勝利を収めたのです。
ユパンキはチャンカ族を追撃してイチュパンパの野で彼らを殲滅しました。
クスコに残っていた有力者たちは一致してクシ・ユパンキを皇帝に選出しました。
皇太子ウルコは急遽首都へ向かうも敗死し、父王ビラコチャは屈辱的な服従の儀式のあとに退位を強いられました。
クシ・ユパンキは即位後パチャクティ(大地を揺るがす者、世界の変革者)と名乗った。
彼はクスコの町を再建し、中部アンデス一帯を制圧し、南方の大国コヨに兵を進めて太平洋に達し、
リマからチチカカ湖にまで及ぶ中部アンデスの支配者となりました。
また弟のカパク・ユパンキに北部遠征を命じ、カハマルカ地方までを征討させました。
その後皇太子トゥパク・ユパンキの率いる遠征軍はエクアドル地方にまで侵攻し、
パチャクティの治世のあいだにインカ族の国は、クスコの谷の小王国から南アメリカ最大の帝国にまで成長したのです。
パチャクティは内政面でも軍事以上に偉大な業績を残しています。
彼は拡大を続ける帝国を4つの地方に再編し、支配機構を整備し、
儀礼や祭典の次第を定め、王の権威と権力をそれまでとは比較にならないほど強化しました。
首都のクスコは大帝国の中心にふさわしく改造され、推定五万人の人々によってサクサイワマン砦を建設しました。
これはエジプトのピラミッド以来、人類の行なった最大の建設プロジェクトであるといわれています。
また学問を振興して貴族のための学校をつくって基礎教育を義務化し、暦を改訂し、学者たちにインカ族の歴史を編纂させ、多くの法律を発布しました。
また彼は大胆な宗教改革を行い、太陽神インティに代えてより形而上的なビラコチャ神を最高神としました。
彼の治世の終わりにはインカの領土は彼以前よりも数十倍に拡大し、インカは真の帝国へと変貌したのです。



番外的な存在として海賊から2名ほど選出しました。
史実の海賊は物語のヒーローのような華々しい存在ではなく、山賊盗賊の類と同じような、残酷でセコく、惨めな悪党に過ぎなかったのです。
ハイレディンなどの国家が後ろ盾にあった海軍提督のような海賊は別格として、
有名海賊と言っても史実ではせいぜい、商船を何隻か襲って、適当にのたれ死んだ、なんてパターンですね。
しかし、せっかく大航海時代という範囲なので史実において軍事的活躍をした海賊を紹介しますね。
といっても有名なのでご存知の方も多いかも。



サー・ヘンリー・モーガン
数々の遠征、規模の大きい海賊行為からスペイン人に恐れられました
キューバ遠征の時に、船の中にいたスペイン人捕虜にこの会議を聞かれ、
その捕虜が逃げ出したことによりエル・プエトル・デル・プリンシペルの町に海賊襲撃が伝わってしまいました。
しかし海賊たちは森の中を通り、兵に気付かれずに町に到着、
町を占拠した海賊は住民を脅し、大量の金銀財宝を奪ってジャマイカ島に帰っていきました。
このとき、イギリス人海賊とフランス人海賊がいさかいをおこし、イギリス人がフランス人を殺してしまった事から、
フランス人海賊たちは、モーガンから離れてしまいました。
ポルト・ベロ遠征の際、キューバ遠征の事件でフランス人海賊が集まらなかったため、460人しかこの遠征に集まらなかったのです。
ポルト・ベロは「難攻不落の要塞」といわれており、人数の少なさに遠征の失敗を心配する仲間もいました。
モーガンはそんな仲間を励まし、激しい攻防の末、奇襲作戦でポルト・ベロを占領してみせました。
パナマ市総督は救援軍を送ったが、逆に海賊に襲われ、モーガンは兵を捕虜とし、パナマ市総督に住民の身代金の要求をしました。
結局パナマ市は身代金を払わず、住民が土の中から掘り出した身代金がわりの10万ペソと宝石、
25万ペソの現金、奴隷など奪ったものを乗せて、モーガンはジャマイカ島に引き上げました。
ポルト・ベロを簡単に攻略されたことで、本国のスペイン人はモーガンを悪魔のように恐れたのです。
マラカイボ遠征の時、たんまり財宝をせしめたモーガンですが、ジャマイカ島に帰る際、河口でスペイン軍に船を囲まれ、投降するように言われます。
モーガンは部下にこの事を話し、降伏するか戦うかを決めさせ決意の統一を図りました。
海賊たちは戦うことを決め、モーガンは火舟作戦で、スペイン船3隻のうち2隻を沈め、
スペイン軍を恐れさせた。このことは、モーガン最高の武勇伝として伝わっています。
パナマに遠征した時は、パナマ市は総督の命令で火に包まれ、モーガンはダゴバ島に逃げた住民を追って、莫大な財宝を手に入れました。
この遠征は、海賊史上最大の遠征といわれている規模の大きなもので色々逸話があります。
しかし財宝の分配のとき、部下が分け前が少ないと文句を言い始め、
やがてそれは、モーガンが財宝を横領しているのではないか、という疑惑が広がりました。
命の危機を感じたモーガンは、少数の部下をつれてジャマイカ島に帰ったのです。
モーガンはポート・ロイヤルでは人気者でしたが、
イギリス本国では、パナマ遠征に対してのスペインの怒りの抗議があったため、
モーガンとジャマイカ島総督モディフォードを拘留し、ロンドンに送らなければならなかったのです。
しかし、二人とも船の中での病気を理由にし、釈放されています。
モーガンは治安判事、海事裁判所長などを歴任し、1680年には、ジャマイカ島代理総督に就任しています。
モーガンはポート・ロイヤルから海賊船を締め出し、
「三ヶ月以内に海賊を廃業した者には土地を与えるが、廃業しない者は絞首刑にする」と最終通告を出しました。
しかし、裏では、ずいぶん海賊を見逃していたようですね。
このとき、モーガンに政界から抹殺されたリンチ卿がジャマイカ島総督として赴任してきました。
リンチ卿は、モーガンが海賊関係の裁判の判決を、陪審員を脅して変えさえていることや、
モーガンの作った私党「ロイヤル・クラブ」の横暴ぶりをイギリス本国に送り、
そのせいでモーガンは全ての役職を解任されたのです。
後に友人がモーガンが政界に復帰できるようにとりはからってくれたのですが、その後すぐにモーガンは死亡しました。


フランソワ・ロロノア
本名ジャン・ダヴィ・ノー。1660年代に活躍したカリブ海のバッカニアです。
最下層の家に生まれたロロノアは、1650年代に年季奉公人としてカリブ海、西インド諸島に送られました。
しかしそこから脱走して様々な島を渡り歩き、いつしか海賊団の一員になりました。
メキシコのカンペチェの近くで彼の参加していた海賊船が難破した際、追い討ちをかけるようにスペイン軍の攻撃にあいましたが、
ロロノアは、他人の血で自分自身をカムフラージュして、死体の間に隠れることによって生き残ったそうです。
スペイン人が出発したあと、彼は一部の奴隷の助けを借りて、トルトゥーガ島へと逃れました。
カトラスを使うのを好んだ彼は、その武芸と度胸で海賊団の首領にのし上がったのです。
彼と彼のクルーはハバナの町を人質にとって身代金をスペインの統治者に要求しました。
ハバナの知事はロロノアの一味を殺すために船を送ったが、ロロノアはその船を捕らえ、1人を除きクルーを皆殺しにしたのです。
そして生き残った1人に、伝言をハバナに届けさせ、その伝言でロロノアは「今後スペイン人には何も与えることはない」と宣言しました。
1666年、ロロノアはマラカイボを制圧するために、8隻の艦隊と600~700人のクルーと共にトルトゥーガ島を出航。
途中で、銀貨(2億4000万円ほど)を積んだスペイン輸送船に出会い、それを捉えた後、マラカイボへ向かいました。
都市への入口は、砦に守られていて堅固であると思われたため、彼はその防備のない陸地寄りから接近しました。
その際多くの住民は逃げ、金や財宝を隠したため、海賊たちは居住者を追跡して捕まえ、彼らが財産の位置を明かすまで拷問したそうです。
さらに海賊たちは砦の大砲を制圧し、即座に退却できるように町の防御壁を破壊しました。
結局彼らは2週間にわたってマラカイボを収奪し、銀貨2万枚をはじめとする多くのものを奪い去ったのです。
その後、ジブラルタルを目指した海賊たちは、500人ものジブラルタル駐屯軍を壊滅させ、身代金目当てに都市を占拠。
身代金の支払いにもかかわらず、ロロノアは都市を略奪し続けました。
ジブラルタルは壊滅的損害を受けたそうです。
このマカライボ・ジブラルタルの襲撃で一気に名を上げたロロノアは、
ヨーロッパ人に「ロロノアに会う位なら死んだ方がマシ」とまで言われたそうです。
しかし、彼も彼の部下も、トルトゥーガ島では気前良く金をばら撒いたため、大変な人気者だったそうです。
しかし、ニカラグア沿岸を襲撃したとき、部下からはぐれた彼は現地のインディオと争いごとを起こし、彼らに一斉にかかられて捕まり殺されました。



これで名将百選が終わる事になりますが、はっきりいって世界も世界の歴史もとても広く深いので、
私の知らないところにもっとすごい名将が隠れているかもしれません。
ちなみにこの企画はネット上にあった世界名将百選に影響を受けて始めたものです。
そちらの方は未完成のまま止まっているようですけどね。
学校の世界史を受けていると、大航海時代はまるで西欧ばかりが活躍して、
戦争とかほとんどしてないように感じるのですが、実際は世界各地で実に色んな事があったりするんですね。
大学の史学科卒の友人から聞いた話でも、基本的に自分の専門分野しか勉強しないので、
世界全体の歴史の流れをきちんと把握してる人って少ない見たいですね。
私も把握できてない部分が多く、今回調べて大変勉強になりました。
信長の野望・革新PKが近いので、そのうち戦国時代系の何かをやりだすかもしれませんw
でゎでゎ、長い間お付き合いいただきありがとうございました。
というか何人この企画に目を通したのか甚だ疑問ではありますけどね!

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うぇ

>お国柄というか民族性というか、馬鹿じゃないの?って思えるほど噂を信じやすいです。
アワワ

|ω・`) しろーさんイラッシャイ
アワワワワ
プロフィール

エヴァンジェル

Author:エヴァンジェル
エウロス鯖の冒険者です。
大航海に関係ない事ばかりです。
暇で仕方がない時に更新します。



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