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大航海時代名将百選③

|ω・`) がんばって更新しております。
今回は欧州からイスラム、インド圏にまで及んでいます。
海戦はMVP連携艦隊に混ぜてもらったので初日165くらいでウマウマでした!
まぁ私はほとんど何もしてないわけデスガ…

プリンツ・オイゲン
サヴォイア・カリニャーノ公子オイゲン・フランツ。
サヴォイア家の血を引くフランス生まれの貴族で、サヴォイア公の男系子孫にあたることから、公子(プリンツ)の称号をもって呼ばれる。
フランス人だったのですがフランス軍で用いられる事がなく、宿敵ハプスブルク家オーストリアの軍人として生涯を祖国との戦いに費やしました。
1683年第二次ウィーン包囲に始まったオスマン帝国との戦争に参加してオイゲンは活躍をみせました。
カルロヴィッツ条約でオーストリアがハンガリー全土を獲得するまでの間に、オーストリア軍の有力な将軍の一人として認められる事になります。
スペイン継承戦争が始まると、オイゲンは北イタリアに入ったオーストリア軍を率いてフランス軍を破りました。
1702年フランスとの戦いでオイゲンはライン川方面の戦線でフランス軍と戦い、
1704年にはイングランドのマールバラ公の軍とともに、バイエルンに駐留するフランス軍をブレンハイムの戦いで撃破します。
この戦いに続く戦闘で、オイゲンの加わる連合軍はライン川流域のフランス軍を壊滅させ、戦争は反フランス同盟側に有利に展開しました。
その後もフランスと戦い続け、その結果スペイン領ネーデルラントを割譲させ、総督に就任しました。
オイゲンは政治外交面でも非凡な活躍をみせ、オーストリアに貢献しています。


アンブロジオ・スピノラ
ヨーロッパ中にその名を轟かせた攻城戦の名人。
軍事史上名高いオランダの名将ナッサウ伯マウリッツも、敵ながらその能力を高く評価していました。
八十年戦争でアンブロジオは1603年よりオステンド攻城戦を引き継ぎ、
1604年にこれを陥落させたのを皮切りに、フランドル各地を転戦し、
ネーデルラント連邦共和国軍を率いるマウリッツ・ファン・ナッサウと互角の攻防を展開します。
しかし戦費の支払いを渋るスペイン王室によってスピノラ家の財政は極端に悪化し、ついにアンブロジオは破産しました。
戦争してるのに戦費渋って配下に押し付けるとか、やる気あるんでしょうかスペインw
1618年に三十年戦争が始まると、アンブロジオはスペイン軍を率いてプファルツ選帝侯領に侵入し、華々しい戦果を上げました。
1621年にオランダとの休戦協定が切れると、アンブロジオは再びフランドルに転戦し、名高いブレダ攻城戦を演出することになります。
しかしこの頃、新たにフェリペ4世の寵臣として寵臣政治を展開していたオリバーレス伯爵は、
フランドル政策においてスピノラとの意見を対立させ、スピノラに非協力的だったのです。
この政争はマウリッツの跡を継いでネーデル軍を指揮したフレデリック・ヘンドリックに有利に働き、戦況は悪化していく事になります。
1629年アンブロジオはマントヴァ公国継承戦争を指揮する為にイタリアに派遣されました。
しかしオリバーレス伯爵の非協力的な態度は続き、アンブロジオは全ての財産を失って失意のうちに病死しました。
結局、スピノラ家にスペイン王室から戦費が支払われることは無かったとの事。鬼ですね。


ガストン・ド・フォワ
16世紀初頭のフランスの将軍です。
1511年に21歳の若さでフランス軍の総司令官となり、イタリア戦争で活躍しました。
勇猛果敢な戦い振りで知られ、フランス軍に数々の戦勝をもたらしますが、
ラヴェンナの戦いで戦死、若き天才司令官の死でフランス軍の士気は大いに下がってしまったようです。


ヘンリー5世 Henry V
若年の時から戦いの指揮を執り、父ヘンリー4世を助けてランカスター朝成立期の国内平定に貢献しました。
王位継承後、フランス国内のブルゴーニュ派とアルマニャック派の内紛に乗じ、
休戦中であった百年戦争を再開して、1415年のアジャンクールの戦いでフランス軍主力を壊滅しました。
1420年、フランス王シャルル6世の娘キャサリンと結婚し、
トロア条約を締結して自らの子孫によるフランス王位継承を認めさせました。
こうしてランカスター朝の絶頂期を築きましたが2年後に急死し、息子ヘンリー6世は薔薇戦争で不幸な結末を迎えるのです。


マクシミリアン1世
オーストリア大公、神聖ローマ皇帝。
武勇に秀で立派な体躯に恵まれ、また芸術の保護者であったことから「中世最後の騎士」と謳われています。
マクシミリアン1世はフランスに幽閉されていた時代にブルゴーニュ公国唯一の後継者マリーと結婚しています。
この妻は落馬事故の怪我が原因で死亡してしまうのですが、
この際に「フィリップとマルグリット2人を相続人に指定し、嫡男フィリップが15歳に達するまで夫マクシミリアンをその後見人とするものである」という遺言をしたため、
家臣には夫たるマクシミリアンに仕えるように遺言を残したのですね。
しかしマリーの死後、彼女の遺志は完全に無視され公国内の有力貴族達は4歳のフィリップを擁立して反乱を起こす。
マクシミリアン1世がフランス王ルイ11世の息のかかったフランドル諸都市の歩兵部隊に幽閉され、
結果として、ルイ11世とアラスの和 を結んで事実上の敗北を認め、ブルゴーニュ公退位を余儀なくされました。
また2歳のマルグリットはフランス王太子シャルル(後のシャルル8世)と婚約させられ、フランスで養育される事になりました。
こうしてマクシミリアン1世はフランスとの確執から自らの軍隊が必要となり、
南ドイツから傭兵を募ってスイス式の装備と訓練とを施し「ランツクネヒト」を組織しました。
その後しばらくして、娘の帰国を要求し何ヶ月間もフランス宮廷と交渉を続けたが接点を見いだせず、
自分と娘が世の笑い者にされた屈辱とフランスのやり方に激怒して、
ついに武力を行使しフランスに併合されていたいくつかの所領を奪い返します。
1493年サンリスの和約により、娘マルグリットの帰国とブルゴーニュ公の遺領分割が決定されました。
この時から、ハプスブルク家とフランス王家の長きにわたる対立が決定的になったのですが、どうみてもフランスが悪質なんですけどね。
婚姻政策とその奥にある軍事力でハプスブルク家を隆盛に導いたマクシミリアン1世はオーストリアの名君といえるでしょう。
よく借金でクビが回らなくなったりしてますが。。。


リラダン L'Isle Adam
フィリップ・ド・リラダン。聖ヨハネ騎士団団長。
スレイマン大帝のロードス島攻略に対して徹底抗戦をし、
オスマンの圧倒的軍勢を相手に5ヶ月もの間、戦い続けました。
その後、スペイン王よりマルタ島を譲られて再び騎士団を再起する事になります。
よろしかろう。


ラ・ヴァレッテ La Valette
リラダンの後を継いだ聖ヨハネ騎士団団長。
マルタ島に攻めてきたスレイマン大帝の大群を相手に、要塞化したマルタ島に引き篭もって、
ついにはオスマンの軍勢を撃退しました。
よろしかろう。


プレッテンベルク Plettenberg
ヴァルター・フォン・プレッテンベルク。リヴォニア騎士団の総長。
1482年に開始されたリガ市との戦争で名声を得て、1494年騎士団総長に選出されました。
1499年に開始されたモスクワとの戦争では、その優秀な指揮能力を発揮してモスクワ軍を破っています。
1501年にリトアニア大公アレクサンデルがポーランド王に選出されると、
これと同盟を結んでモスクワに対抗するが、1503年モスクワとの間で休戦条約を締結しました。
リガ大司教との対抗上ルター派を支持しましたが、1525年にドイツ騎士団(チュートン騎士団)領が世俗化するとこれを拒否し、
リヴォニア騎士団領を維持したのです。


ジョアン1世 Joao I, o de Boa Memoria
ポルトガル王国アヴィシュ王朝の創始者。エンリケ航海王子の父。
武勇に優れ、青年期はアヴィシュ騎士団の団長を務めていました。
1383年、異母兄フェルナンド1世が死去すると、その王妃レオノール・テレスと貴族による専制政治が始まります。
それに対してジョアン1世は反王妃派に支持され、ポルトガル王国内における勢力基盤を築き上げました。
一方、このようなポルトガルの乱れを見た時のカスティーリャ国王フアン1世は、
先王とレオノール・テレスの娘ベアトリスの婿であることを理由にポルトガルに侵攻。
ジョアン1世はこれをリスボンで迎え撃って撃退し、国民から救国の英雄として讃えられました。
この戦果をうけて、ジョアン1世はポルトガル王に選出されました。
その後フアン1世が再度侵攻してきたが、アルジュバロータの戦いで再び勝利します。
さらにカスティーリャ王国の背後に同盟国フランスがいるのに対抗して、
1386年にイングランドとウィンザー条約を結んで同盟を締結。
1411年になってカスティーリャ王国と和睦を結んで側背の脅威を排除すると、積極的な勢力拡大に乗り出します。
息子であるエンリケ航海王子と共にモロッコに進出し、同地に勢力を拡大したのですね。
その後も、積極的な勢力拡大に努めてポルトガルの全盛期の基礎を築き上げました
政治・軍事の多くで成功を収め、ポルトガルの全盛期の基礎を築き上げた経緯から、『大王』と呼ばれています。


ピエトロ・ロレダン P. Loredan
ヴェネツィア貴族にして海軍提督。
彼はガリポリ沖でオスマン艦隊を破り、その数年後ポルトフィーノでジェノバ艦隊を撃破しました。
1433年、その人気を利用して元首(ドージェ)の座を狙いましたが、元首フランチェスコ・フォスカリによって阻まれました。
以後も要職を歴任しますが、1439年死去。
フランチェスコ・フォスカリによる暗殺ともいわれております。


バルバロス・ハイレディン Barberus
かの有名な“赤髭”バルバロッサです。大航海時代シリーズ最強の海賊ですね、金貨5000枚を恵んでもらった人も多いでしょう(?)
兄ウルージ・レイスとともにアルジェリアを拠点に、北アフリカ海岸で活動する水軍を率いて、
「バルバロス(赤髯、もしくはバルバリアの王という意味)」としてキリスト教国から恐れられた伝説の大海賊。
バルバロスの称号は兄から受け継いだもので、彼自身の鬚は鳶色だったとか。
1516年 アルジェの太守となっていた兄の留守中、
スペイン王カルロス1世の派遣した1万のスペイン兵によって根拠地であったアルジェを追われてしまいます。
その後、オスマン帝国のスルタン、セリム1世に帰順し、オスマン・トルコ帝国のアルジェ総督に任命されました。
少ししてスレイマン大帝の時代、近衛隊であるイェニチェリ2000人を与えられ、
アルジェをスペイン人から奪還、オスマン帝国のカプダン・パシャ(大提督)となりました。
1535年、カルロス1世の派遣した宿敵アンドレア・ドーリアによってチュニスから駆逐されるも、
プレベザの海戦にて、イオニア海で劣勢なトルコ艦隊を率いて、
プレベザ要塞攻囲中の西欧諸国連合艦隊(アンドレア・ドーリア提督)に勝利。
1546年についに死去しましたが実年齢90歳を越えていたという説があります。
遺体はイスタンブールに安置され、トルコ海軍の提督たちは、海に出る前には必ず彼に祈りを捧げたという事です。



メフメト2世 Meh.med II
「征服王(ファーティフ)」と畏敬されています。
一部の重臣の反対を押し切ってコンスタンティノープルへ攻め入りました。
この時、「オスマン艦隊の山越え」と呼ばれる奇策をもってついにビザンティン帝国を滅ぼします。
間もなくコンスタンティノープルをイスタンブールと改称し、従来のエディルネにかえてイスタンブルを首都としました。
彼は長年の戦乱とビザンティン帝国の弱体化によって荒廃したイスタンブールの復興に尽力し、トプカプ宮殿の建設を開始。
対外的にはバルカンやアナトリア各地のビザンティン系諸侯国の討滅を手始めに、ペロポネソス半島やセルビアを征服し、
ベオグラード、アルバニアに侵攻し、ワラキアを臣従させ、
ヴェネツィア共和国からエーゲ海の支配を奪い、白羊朝のウズン・ハサンを破り、
さらにクリム・ハン国を降して黒海をトルコの湖としました。
その治世を通じて常に征服事業を続け、スルタンの権威と権力を著しく高めたのです。


セリム1世 Selim I Yavuz
「冷酷王(ヤヴズ)」
サファヴィー朝台頭などに伴う混乱の中で、父の意向を無視して勝手にセメンドリア太守に就任し、
イェニチェリの支持を背景に優柔不断な父を廃して自ら帝位についたばかりか、
競争者の兄弟・従弟、さらに退位させた父親をも暗殺して後の憂いを絶った事から冷酷王と呼ばれています。
サファヴィー朝の煽動するシーア派勢力の反乱に対しては断固とした態度で臨み、
オスマン朝史上ほとんど唯一の大々的な宗教弾圧を断行したりもしていますね。
さらに禍根を断つべく東方遠征を行い、
1514年にイスマーイール1世の率いるサファヴィー朝軍をチャルディラーンの戦いで一方的に虐殺しました。
さらにシリアとエジプトに兵を進め、マルジュ・ダービクとリダニヤの戦いに勝利してマムルーク朝エジプトを征服。
メッカとメディナ両聖地の保護権を獲得し、名実ともにイスラム世界の盟主となりました。
その後まもなくイスタンブルで崩御し、子のスレイマン1世が後を継ぎました。
セリム1世はオスマン帝国史上でも屈指の軍事的才能の持ち主だと言われております。


ウルージ・レイス 
かのハイレディンの兄、ウルージも赤髭と呼ばれておりました。
1504年頃からチュニジアやアルジェリアの海域を荒らしまわっていたが、
ハフス朝の君主たちから略奪品の5分の1を納めるのと引き換えに保護を与えるという約束を得てチュニスを根拠地に定めます。
1512年、ビジャーヤの王の要請を受けてジェノヴァのスペイン人の砦を攻めたが、その際左腕に銃弾を受けて、片腕を失いました。
負傷中の兄に代わってゴレッタを守備していた弟ハイレディンもアンドレア・ドーリア率いるジェノバ艦隊に敗れています。
1516年、アルジェの要請を受け、同地のスペイン軍を攻撃して大勝を納め、
ウルージの威名は揚がり、アルジェリア沿岸都市はもちろん内陸部の都市も彼に従いました。
「中央マグリブの大王」を称したウルージに対し、
神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世は1万人の討伐軍を派遣してトレムセンを攻撃します。
ウルージは殿軍として奮戦したが、ついに戦死しました。


スレイマン1世 Suleyman I Kanuni
オスマン帝国の全盛期を現出したオスマン史上最高のスルタン。スレイマン大帝。
トルコでは「立法者 (カヌーニ)」、ヨーロッパでは「壮麗者 (エル・マニフィコ)」と呼ばれています。
46年間の治世に13回の遠征を行い (うち10回は東中欧、3回はイラン)、最大領土を保有しました。
ヨーロッパとアジア、アフリカにまたがる最強帝国として、オーストリア、フランス両国の紛争に関与するなど、
16世紀中期のヨーロッパ政局に大きな発言力をもちました。
内政面では正規軍を増強、封建制度・教育制度・法制を確立し、基本法典『ムルテカ・エル・エブハル』を集大成するなどして、文運の隆盛を招いています。


ティムール
チンギス・ハーンの遺志を継ぐもの。中央アジアの大征服者。
チャガタイ・ハン国の混乱に乗じて台頭し、
1360年、東チャガタイ・ハン国のトゥグルク・ティムールが侵攻すると、
これに降って領土を与えられるが、間もなくカラウナス部のフサインと結んで離反します。
62年と63年にトゥグルク・ティムールに連敗し、
65年には「泥濘の戦い」でトゥグルク・ティムールの子イルヤス・ホージャに大敗しました。
しかし翌年二人は計略を用いてサマルカンドを奪取し、その後フサインとの間に隙を生じたティムールは70年に彼を打倒。
バルフを攻略し、チンギス・ハン家の子孫を迎えてハーンとして擁立し、
自らはハンの娘婿(キュレゲン)と名乗って名実ともにマー・ワラー・アンナフルの支配者となります。
ついで各地に盛んに遠征をはじめ、70年代には東トルキスタンとホラズムに出兵し、
86年からの三年戦役でイラン・アフガニスタン・グルジア・アルメニアを征服しました。
88年には南ロシアに侵入し、92年からの五年戦役ではイラン全域を支配化とし、
バグダードを占領し、カフカスから南ロシアに転じてキプチャクの都サライを破壊、
さらにルーシに進撃してモスクワの南百数十キロにいたって兵を返しました。
98年にはインドに遠征してデリーを略奪し、99年からの七年戦役では
アゼルバイジャンで反乱を起こした三男ミラン・シャーを屈服させ、シリアのダマスクスを占領し、
1402年にはアナトリアに侵入してオスマン・トルコのバヤジット2世を撃破しています。
中央アジアと西アジア、南ロシアにまたがる広大な版図を獲得し、モンゴル帝国のほぼ西半分を支配下におさめました。
1404年には大モンゴル帝国再興を完成し、二十万の大軍を編成して遂に長年の計画であった中国遠征を実行に移そうとします。
明の永楽帝はこれを知って急遽西域に非常警戒を発令したと言われております。
ところが翌年、寒気のため酒浸りになったティムールは、アム河畔のオトラルで急死しました。
遠征計画は放棄され、後継者争いがはじまって帝国は解体し、ティムール帝国の覇業はここで潰えたのです。
ティムールは背が高くて肩幅が広く、大きな頭に顎鬚を蓄え、声は太く、力強く勇敢で死を恐れませんでした。
記憶力に優れ冗談や嘘を好まず、常に真実を尊重しました。
敬虔なイスラム教徒だったが一方で宗教を徹底的に政治に利用しました。
面会した人は誰でも彼が教養ある人であるとの印象を受けたとか。
遠征中はいつも「読み手」を伴って本を朗読させたが、特に歴史書を好み、歴史に通じていました。
ダマスクスではイスラム世界を代表する大歴史家イブン・ハルドゥーンと二時間にわたって会談しています。
詩歌を愛し、学芸を保護し、教育を振興したという側面もあります。
チンギス・ハンを崇拝し、大モンゴル帝国を再建してイスラムの教えを世界の果てまで宣布する事を夢みていました。
征服者としては極めて冷酷残虐であり、特に一度服従しながら寝返った都市に対しては一切容赦しませんでした。
イスファハーンで七万人の頭蓋骨のピラミッドを築いた事はあまりに有名な惨事です。
だが彼は単なる苛烈な征服者にとどまらず、強烈な美意識の持ち主でもありました。
最初の妻ウルジャイ・トゥルカン・アガをこよなく愛し、彼女の死後は美への情熱を建築に注いでいます。
どんな破壊虐殺をしようと職人や技術者、学者だけは必ず助命し、首都サマルカンドへ連行して、
自らの指揮設計のもと多くの美しい建築物を造らせ、サマルカンドを美の都、青の都と呼ばしめました。
ティムールの子孫には建築、科学、歴史、詩、細密画などに優れた才能を持った多くの文化人が生まれています。
チャガタイ・トルコ語文学の最高傑作といわれる自伝『バーブル・ナーマ』を著したインドのムガール帝国の建国者バーブルもその一人です。


バヤジット1世
果断で迅速なことから「雷光」の名で呼ばれています。
1389年、コソヴォの戦いで引見中の捕虜に父王が刺殺されると直ちに王位を継ぎ、
競争相手を除くべく同じ戦場で戦っている他の兄弟を殺害しました。
即位後は積極的な拡大政策をとり、セルビアを征服ししたのを手始めに、
ボスニア、ワラキアなどを次々と服従させ、91年にはコンスタンティノープルを包囲。
96年には神聖ローマ皇帝ジギスムントの主唱による対トルコ十字軍が来襲するが、これを迎え撃って圧倒的勝利を収めました。
東でもアナトリアの諸侯国を次々に併合していきますが、
これに恐れを抱いたアナトリア諸侯が中央アジアより来襲したティムールを頼ったことから、アンカラで両雄が合間見えることになるのです。
この戦いでは不利な条件での開戦に加え、配下諸部族の相次ぐ裏切りなどによりバヤジット1世は惨敗してしまいます。
親衛隊イェニチェリ軍団までもが「主君より王朝を守るために」大宰相と王子を伴い主君を見捨てて一斉に戦線を離脱していき、
バヤズィットは残る手勢とともに包囲の突破を図るが、捕虜となりました。
ティムールはバヤジット1世を丁重に扱ったのですが屈辱のあまり憤死したと伝えられています。


ピリ・レイス Piri Reis
ピリ・イブン・ハジ・メムド。艦隊司令官としてよりも、地図作成者として後世に名を残しています。
神秘学におけるオーパーツの分野でも、ピリ・レイスの地図は有名ですね。
1499年から1502年まで続いたオスマン帝国とヴェネツィア共和国の戦争に参加、
シチリア島、コルシカ島、サルデーニャ島、フランス南岸などの海域での作戦に従事し、「船長」を意味するレイスの称号を与えらました。
1516年から1517年にはシリア、エジプト海域に出動し、セリム1世のマムルーク朝征服を援護、1522年にはスレイマン1世のロードス島遠征に参加。
その後しばらくはハイレディン麾下の提督として活躍しています。
1551年、老練の提督となっていたピリ・レイスは、
艦隊を率いてマスカートを占領し、ホルムズを略奪しましたが、ポルトガル艦隊にホルムズ海峡を封鎖され、撤退します。
これに始まる対ポルトガル・インド洋争覇戦は、1553年にオマーン沖でポルトガル艦隊を撃破し、グジャラートに到達。
両国は1555年に講和し、インド洋におけるポルトガルの覇権を抑止しました。
ピリ・レイスは1554年に攻撃を中止しエジプトに帰投したことから戦線放棄の罪に問われ処刑されています。


ケマル・レイス Kemal Reis
「ピリ・レイスの世界地図」で知られるオスマン朝の提督ピリ・レイスの伯父。
15世紀末の有名な海賊で、のちにオスマン朝の提督として活躍しました。
1487年、北アフリカに拠ってスペイン領バレアレス諸島を襲撃しています。


ゴーヴィンド・シング
パンジャブ、シク教第10代グル(法主)。
第9代グル、テーグ・バハードゥルの息子。父の処刑によりわずか10歳でグルとなりました。
勇敢で才知あふれる人物で、教団の軍事化を進めて、戦闘的な信徒の共同体「カールサー」を設立しました。
カールサーの党員は5つのK、すなわちケーシュ(髪)、カンガー(櫛)、カッチュ(短袴)、カラー(腕輪)、キルパーン(懐剣)の携行を義務付けられ、
男は「シング(獅子)」、女は「コウル(王女)」を姓とするよう定められています。
その後、ゴーヴィンド・シングはカールサーを直接率いてムガール朝と泥沼の戦いを展開し、
ラホール州長官ワズィール・ハーンによって2人の息子を処刑され、別の戦闘で残された2人の息子を失いました。
皇帝アウラングゼーブの死後、ムガール朝との関係は改善されましたが、
1708年パターン族の男に刺されて重傷を負い、死の床で聖典「グラント・サーヒブ」を後継のグルに指名して息をひきとりました。


アッバース1世
1587年に師傅のモルシェド・コリー・ハーンに擁立され、17歳で第5代シャーに即位しました。
即位の翌年、絶大な権力を掌握していた自らの師傅を暗殺させ親政を開始。
官僚・統治機構を整備し中央集権化を推し進め、即位後10年経ち国内秩序が安定すると、
交通・産業・商業・貿易の振興に力を注ぎ、新首都イスファハンを建設し、98年冬に遷都しました。
また、大規模な外征を繰り返し、オスマン帝国からイランの一部とアゼルバイジャン地方を取り戻し、王朝創建時の領土の回復にも成功しました。


ムハンマド・シャイバーニー Muhammad Shaybani
シャイバーン朝の初代ハン。
祖父の死後各地で亡命生活を送り、モグーリスタンのマフムード・ハンに仕えました。
1500年、サマルカンドに拠るティムール朝のアリーを殺してマー・ワラー・アンナフルの支配権を奪います。
一時、ティムール家のバーブルにサマルカンドを奪われましたが、
すぐに奪還し、タシュケント、ホラズム、ヘラートを次々と占領、ティムール朝を滅ぼしました。
しかし、1508年から翌年にかけてのカザフ遠征の失敗などにより王族の支持を失い、
1510年サファヴィー朝のイスマーイールに敗れて、メルブ郊外で殺されました。
イスマーイールは、シャイバーニーの頭蓋骨で杯を作り勝利を祝ったと伝えられています。


シャー=イスマーイール1世
イラン西北部のアルダビールを本拠とするイスラム神秘主義・サファヴィー教団の教主の子として生まれました。
白羊朝との戦いで一族が次々と倒れたため、幼くして教団の教主となり、五年間にわたってカスピ海南岸のギーラーンに潜伏。
1499年、12歳で早熟の天才教主イスマーイールはついに起ち、小アジア東部のエルジンジャンの地に教団に従う遊牧諸部族を結集します。
7000のキジルバシ(紅帽の徒)軍団が終結し、教主イスマーイールに無私の忠誠を誓いました。
キジルバシ軍団は各地の敵を破りつつ東進し、翌々年には僅か14歳のイスマーイールの指揮のもと、三万の敵軍を破ってイランの首邑タブリーズに入城。
勢いに乗って瞬く間にイランとイラクを席捲し、1510年には中央アジアの覇王シャイバーニーと決戦に至ります。
イスマーイールは機略に富んだウズベク族のこの英雄をあっけなく破り、ホラーサーンをも制覇して完勝を収めました。
シーア派をイランの国教とし、国家組織を整え、さらに各地へ「シャー・クル」(王の下僕)と呼ばれる宣布使を送り込み、
オスマン帝国治下のアナトリアでもシャー・クルに率いられたシーア派の大反乱が起きていました。
この危機にあたり、優柔不断な父を廃して自ら帝位についたオスマン皇帝セリム1世は1514年、
オスマンとサファヴィーの雌雄を決するべく、5万とも10万とも伝える大軍を率いてアナトリアを東進。
イスマーイールは数万の軍を率いてこれを迎撃し、両軍はヴァン湖の東、チャルディラーン平原で激突しました。
オスマン軍は当時最新の鉄砲と大砲を駆使し、かつて敗北を知らないサファヴィー・トゥルクメン騎兵を翻弄する。
イスマーイール自ら陣頭に立っての必死の奮戦と猛攻も空しく、夜が迫る頃にはサファヴィー軍の敗色は明らかとなりました。
オスマン軍に両面から包囲されて絶体絶命の危機に陥ったイスマーイールは影武者の助けで辛うじて戦線を離脱し、それとともにサファヴィー軍は総崩れとなりました。
おびただしい装備や器物、財宝はもとよりイスマーイールの愛妾までが戦場に遺棄されたままという徹底的な敗北でした。
これによってイスマーイールのプライドは粉々になり、キジルバシを服従せしめた神的なカリスマも雲散してしまいました。
心に致命傷を負ったイスマーイールは、以後二度と軍を率いようとせず、狩猟や酒色に溺れて37歳の若さで世を去っています。
チャルディラーンの大敗は騎兵から砲兵へという世界史の趨勢によるものだったと言えるでしょう。


バーブル Babur
ムガール朝の初代皇帝。
父はティムール朝第7代国王アブー・サイードの息子ウマル・シャイフ、
母はチンギス・ハーンの血をひくモグーリスタンのユーヌス・ハンの娘クトルク・ニガール・ハーヌム。
1494年、父の死により12歳の若さでフェルガナの支配者となり、伯父マフムードとその息子たちとサマルカンドの覇権をめぐって争いました。
1497年従兄弟のバーイ・スングルからサマルカンドを奪いますが、まもなくアンディジャンの反乱鎮圧のため故郷に引き返し、
1500年にウズベクのムハンマド・シャイバーニーがサマルカンドを占領するとアフガニスタン方面に移動、1504年にカーブルを占領しています。
バーブルはサマルカンド奪還のため同じティムール家のヘラート政権の援助を得ようとするが、結局ヘラートもシャイバーニーによって占領されました。
1510年、シャイバーニーがサファヴィー朝のシャー・イスマーイールによって殺害されると、バーブルは彼の援助により、翌年サマルカンドの奪還に成功しました。
しかし、バーブルの権力基盤は脆弱で、1512年、数の上では遥かに劣るウズベク軍に敗北を喫し、中央アジアの支配を最終的にあきらめざるをえなくなりました。
カーブルに戻ったバーブルはインド方面に目を向け、1525年インド遠征に出発、
翌26年パーニーパットの戦いでローディー朝の軍に勝利しデリーとアーグラーを占領しました。
バーブルは北インドの支配を確実なものにするため、
1527年ハーヌアー(カーンワー)の戦いでメワール王国のラーナー・サーンガー率いるラージプート連合軍を破り、
1528年から翌年にかけて、さらに東方に進出してロディー朝の残党やベンガル軍をも撃破しました。
バーブルは公正で寛容な支配者であると同時に天性の軍人でもあり、また「バーブル・ナーマ」を著すなど優れた詩人でもありました。


アクバル1世 Akbar I
ムガル帝国第3代皇帝。
事実上の帝国建国者であり、インド史における新秩序の創設者とされています。
祖父の建設した帝国領土は父の代に崩れ、
幼時にはカーブル王のもとで人質生活を送らねばならなかったのです。
父が帝国領土回復の途上で死ぬと14歳にしてインド中原の争奪戦に乗りだし、最終的には古代帝国に匹敵する版図の主となりました。
皇帝となってからは、ヒンズー教王女との結婚、諸宗教を融合した神聖宗教の創設、
イエズス会宣教師の宮廷入り、人頭税(ジズヤ)の撤廃などで、他勢力との融和政策をとり帝国の安定に努めました。
晩年は王子の反乱に悩まされ、その最期は一説によると毒殺とされています。


バフロール・ロディー
ティムール侵入後にパンジャブ地方で独立したサルダール(指導者)と呼ばれるアフガン人の有力者の一人でした。
マールワ王国の英主マフムード=シャー=ハルジーの攻撃で、サイード朝が崩壊したのを契機にスルタンに即位し、ロディー朝を建てました。
バフロールは、東方のウッタル・プラデーシュ地方の支配をめぐり
ジャウンプルのシャルキー王国との戦いを進めるに当たり、勇猛だが貧困に悩むアフガン人の傭兵を招きいれました。
アフガン人の歴史家アッバース=サルワーニの表現を借りれば
「アフガン人はイナゴの大群のようにスルタン・バフロールのもとにやってきて仕えた」と伝えられています。
こうして、1479年、スルタン、バフロールは、ジャウンプルを占領してシャルキー王国を滅ぼし、王国の版図を息子たちや親族に分割しました。

今回はわりと知られている人物が多いと思うのですがどうでしたか?
次はいよいよ最後、東南アジアから東アジア、新大陸、そして海賊から数名登場します。

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