スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

大航海時代名将百選②

|ω・`) はい、大航海時代名将百選の続きです。
調べてくるのにものすごく時間がかかるのですが、私は時間をかけすぎているのでしょうか?w
まだまだ欧州圏の人物が続きます。
残りの2回でイスラム圏や全アジア等の範囲も紹介しますYO。

ヴラド3世ツェペシュ Vlad III Tepes
吸血鬼ドラキュラのモデルとして知られている有名な人ですね。串刺し公とも呼ばれます。
ワラキア公ヴラド・ドラクルの次男で、父も悪魔公ドラクルというすごい異名を持っています。
ドラキュラというのはドラクルの子、小竜公という意味だそうで、本人も好んで使用したとされ、文章などが残っています。
オスマンに亡命した父がその支援を受けて公位に復帰する際、弟ラドゥとともに人質として留め置かれます。
1446年に父が暗殺されると、オスマンの支援を受けてワラキア公に即位しますが、
わずか2ヶ月で前公ヴラディスラヴにその地位を追われ、母の実家であるモルドヴァに亡命しました。
しかし、1451年モルドヴァ公ボグダン2世が暗殺されたため、ヴラドはボグダンの息子である親友シュテファンとともに
トランシルヴァニア公フニャディ・ヤーノシュのもとに逃れました。
といっても、この人が父を暗殺したり、ヴラディスラヴを支援してツェペシュを追い出したりしてるので、
なんだか複雑な情勢だったことが伺えますね。
1456年ハンガリーの支持を得てワラキアに侵攻して公位に復し、父を裏切った貴族たちを串刺しにして処刑した事が
あだ名のツェペシュ(串刺し)の由来となっています。
ちなみにヴラド3世を串刺し公と最初に呼んだのは、
1460年頃ツェペシュの串刺しを目の当たりにしたオスマン兵であり、トルコ語でカズィクル・ベイ(カズィクルは串刺し、ベイは君主)といったそうな。
内政や軍事改革をすすめ、産業を育成して国力の回復に努め、オスマンからの貢納金増額の要求を拒否して対立し、
侵攻してきたオスマン軍を撃退、その後も度々オスマン軍に勝利しますが、貴族たちの裏切りにより公位を追われ、
亡命先のトランシルヴァニアで逮捕、投獄されてしまいました。
1476年、モルドヴァのシュテファン大公の支援により復位しましたが、翌年に戦死しています。
ツェペシュの統治下にあったワラキアでは非常に治安が行き届いており、領民からは名君として尊敬されていたとか。


シュテファン大公 Stefan the Great
1451年に父が暗殺されると、その庇護下にあったワラキアのヴラド・ツェペシュとともにトランシルヴァニアに亡命した。
その後、1457年ワラキア公位に就いていたヴラド・ツェペシュの支援によりモルドヴァ公となりました。
公位就任後は、これに干渉を加えようとするポーランド、ハンガリーのたくらみを巧みに退け、
1465年にはモルドヴァに敵対するワラキア公ラドゥを破り、以降ワラキアに干渉、友人ヴラド・ツェペシュの復位を助けました。
1472年以降は、反オスマン朝同盟を結成するためポーランド、ハンガリー、ヴェネチア、教皇の間を奔走するとともに、
オスマンへの貢納金の支払いを拒否しました。
1475年オスマン朝のスレイマン・パシャの軍を破り、
以後もオスマンとの戦争で、たびたび勝利を収めました。
しかしながら、彼の呼びかけた対オスマン十字軍の結成はならず、
孤立を深めたシュテファンはついにオスマンへの貢納金の支払いを認めました。
最後までモルドヴァの自治権を維持し続けたため、ルーマニアを代表する偉大な君主として「大公」と称せられました。



カール12世 Karl XII
“北方のアレクサンドロス”や“戦士王”と呼ばれる若き天才。
ロシア、デンマーク、ザクセンの同盟軍と激突し三方から攻撃を受けて北方戦争が始まりますが、
カール12世は自ら軍を率いて遠征するやすぐにデンマークを倒し、ナルバを攻撃中のピョートル大帝の軍を壊滅させました。
ザクセン選帝侯、ポーランド王フリードリヒ・アウグスト2世も破りこれらの連戦に勝利して、
フリードリヒ・アウグスト2世を退位に追い込みました。
わずか30歳の年にして亡くなりましたが、その生涯同姓であれ異性であれ興味を示す事がなかったと言われております。
銀河英雄伝説のラインハルトを表現する際に、登場した王です。


ヤン・ジシュカ Jan Zizka
隻眼のジシュカと称されたフス戦争の英雄。
当時のボヘミアには、教会の私有財産保有に反対する宗教改革者ヤン・フスがいましたが、
ジシュカはこのフスの考えに心酔して、同じくフスの考えを支持するフス派の急進派に所属しました。
1415年フスが火刑にされると、ローマ教皇や時の神聖ローマ皇帝ジギスムントに対して反感を抱くようになり、
1419年にジギスムントがボヘミア王に就任すると、これに反抗してフス戦争を引き起こします。
1420年に城塞都市ターボルを拠点として、フス派の中でも特に最急進派といわれたターボル派を結成し、その司令官となって軍を主導しました。
ジシュカが作り出したターボル派の軍事力は、信仰に基づく厳格な軍紀と様々な新兵器戦術により、凄まじい強さを誇っていました。
このため皇帝ジギスムントの神聖ローマ帝国軍も、ジシュカの前に何度も大敗を喫してしまうのです。
その戦いを少しだけ詳しく記述すると、
フス派軍は荷車を立ててバリケードとしてロングボウの攻撃を防ぎ、
その隙間から射撃実行班と銃身掃除班と発射準備班に分かれた鉄砲隊が間断なく射撃を続けるという新戦術で、
騎士突撃を跳ね返し、さらに当時の欧州世界で最強とされていたロングボウ戦術をも打ち破ったのです。
また彼はこの戦いにおいて、大砲も巧みに運用して見せました。
「ジシコフの戦い」と呼ばれるこの戦いは、補助兵器でしかなかった鉄砲が、世界史上初めて主力武器として用いられた戦いでした。
セリム1世のチャルディラーンに先立つこと94年、織田信長の長篠に先立つこと155年、
しかも、この2者は敵軍よりも多い兵数を擁していましたが、ジシュカは十倍近い大軍を打ち破ったのです。
1421年にジシュカは強大な軍事力を背景としてジギスムントのボヘミア王廃位を宣言し、臨時政府を樹立しました。
その後もジギスムントの神聖ローマ帝国軍に連戦連勝を重ねたが、まもなく病のために失明してしまいます。
1424年、モラヴィア遠征中にペストにかかり、その生涯を閉じました。


プロコプ
アンドレアス・プロコプ。上記のヤン・ジシュカと共に世界史の中でも屈指の名将です。
ジシュカの死を悲しんだオレーブ派は、自らを孤児団と称するようになります。
孤児団の指導者に推され、新たにフス派全軍司令官の称号を受け継ぎました。
1426年に第四次異端撲滅十字軍を打ち破り、「ドイツ人の死体が、麦束のように地平線の彼方まで散乱した」と言われるほどの大勝利を収めました。
後世に「スパニレー・イーズディ(偉大なる行軍)」と呼ばれる大遠征を行いにおいては、
プロコプ軍と対峙したカトリック連合軍は、いかなる兵数であっても無残に敗北するのみでした。
プロコプ軍の進軍ルート上にあった諸侯や都市は、蹂躙されて灰塵と化すか、抵抗を断念して逃げ出すか、
多額の貢物を差し出してきて和議を乞う以外の結末が存在しなかったのです。
1430年、神聖ローマ皇帝ジギスムントのドイツにおける本拠地であったニュルンベルク市や、
七大選帝侯であり、大貴族中の大貴族であるブランデンブルク辺境伯や、ファルツ伯などが、多額の金を差し出して、和議を結びました。
1431年、ローマ教皇が第五次異端撲滅十字軍を結集させ異端撲滅十字軍として最多の13万の軍勢でプロコプを襲います。
分散していた別働隊と合流する時間が無かったため、手元にあった2万の兵を率いてプロコプは迎撃に向かいました。
戦場に到着した時点で、十字軍は既に有利な地形に布陣していましたが、
プロコプはいつものようにフス派の賛美歌「汝、神の戦士たれ」を全軍に合唱させ、前進を命じました。
すると恐怖心に駆られた十字軍の兵士が逃げ出し、さらには軍司令官や従軍していたカトリックの聖職者まで逃げ出してしまいました。
プロコプ率いるフス派軍の強さは、まさに迷信的とさえ言える恐怖を与えるほどの強さだったのですね。
カトリック連合軍は、全軍が逃げ出してしまい戦死者が200人しかいなかったという戦史上稀な情けない敗北を味わうことになりました。
教皇をノイローゼに陥らせ、フス派軍がローマまで攻めてくるという被害妄想を植えつけられてしまいました。
この敗北で、教皇と神聖ローマ皇帝の威信は地に落ち、異端撲滅十字軍を行うことは二度と出来なくなりました。
その為、教皇も皇帝もフス派との和議のテーブルに着かざるを得なくなりました。
プロコプはその後も連戦連勝のまま、長年の戦友の裏切りによってついに戦死することになりました。
プロコプの軍はあまりの強さ故に、自軍の制御が利かず、それぞれが勝手に作戦行動を取ったり、私腹を肥やしフス派の理念さえ忘れるものがいたそうです。
皮肉なことに無敵とも言えるほどに強過ぎた事が彼の戦略やフス派の理念を狂わせてしまったのですね。
暴徒と化した急進派に引きずられていくうちに、自分自身が心から望んでいた和平の障害となってしまい、不幸な最期を遂げてしまうのです。


ヴワディスワフ2世ヤギェウォ
ポーランド王即位前はヤガイラ。リトアニア大公にしてポーランド王。ヤギェウォ朝創立者。
一度は叔父ケストゥティスに大公位を奪われるも、1382年にドイツ騎士団の支援でこれを奪回します。
それがドイツ騎士団の侵攻の口実ともなり、ポーランドをも巻き込んだ戦乱へと発展してしまいました。  
そこでヤガイラは両国の連携を深めてドイツ騎士団に対抗すべく、1384年に当時11歳の女王ヤドヴィガに求婚をします。
ポーランド貴族達の利害とも合致した為に話は進み、リトアニアのカトリックへの改宗を条件に、
翌年成立したクレヴォの合意によりヤドヴィガと結婚して同盟が成立。
1386年にヤガイラは、ヴワディスワフ2世ヤギェウォとしてポーランド王に即位しました。
同君連合が成立した後のリトアニアの改宗は思いの外スムーズに進み、
同時に神聖な森を切り崩したり寺院を破壊する事で、盛んに対外的なアピールも行いました。
1399年には女王ヤドヴィガが没するも、確かな成果を上げていたヤギェウォをポーランドの貴族達は引き留めます。
一方、バルト沿岸最後の異教国と言われたリトアニアが改宗したとなれば北方十字軍の大義名分を失いかねないドイツ騎士団は、
改宗を偽装として認めようとしなかったのですね。
リトアニアへの十字軍派遣をローマ教皇に提唱するも、逆に介入禁止を言い渡されてしまいました。
しかし騎士団はその命令を無視し、ボヘミアとハンガリーと同盟を結んだ上、
全欧に十字軍結成を呼び掛けてポーランドに宣戦布告しました、教皇無視していいんですかね?w
その動きはヤギェウォが察知していたので、
1410年ポーランド・リトアニア連合軍を率いて先手を打ち、騎士団領へ侵攻しました。
ドブロブノ要塞を陥落し、騎士団の本拠地を目指す連合軍とそれを迎え撃つ騎士団は、タンネンベルク近郊にて激突します。
装備・練度で大きく勝るドイツ騎士団を、兵力で上回るヤギェウォ自らが率いる連合軍が、
圧されながらも戦況を引っくり返して完膚無きまでに撃破しました。
総長フォン・ユンギンゲンと幹部達を敗死に追い込み、多くの上級騎士を捕虜にする完勝です。
これが中世最大の戦いの一つと言われるタンネンベルクの戦いですね。
1411年に成立した第一次トルンの和約により、
騎士団はヤギェウォが死ぬまでサモギチアとドブシン地方をリトアニアに割譲する事になりました。
他方面においてもヤギェウォは順調に版図を拡大し続けました。
1413年にはリトアニアとボロドレ協定を結んで関係を強化しつつ、黒海方面へ進出しています。


フニャディ・ヤーノシュ
ハンガリーにおける国民的英雄。
本拠地は現ルーマニア領のヴァイダフニャド(現在のフネドワラ)で、
ハンガリー王も兼ねていた神聖ローマ皇帝ジギスムントに見出され、傭兵隊長としてイタリアなどで名を馳せました。
後にトランシルヴァニア公に任じられ、内はヴラド2世や子のヴラド3世、外はハンガリー十字軍を率いてフス派残党を率いるヤン・イスクラ、
そして当時欧州最大の脅威であったオスマン帝国と戦いました。
ベオグラードの戦いで同地を包囲したオスマン軍に大勝しましたが、直後にペストで病死。


コンスタンティヌス11世
パレオロゴス朝東ローマ(ビザンツ)帝国最後の皇帝、すなわちローマ帝国最後の皇帝です。
1428年にペロポネソス半島の統治者の一人として赴任し、以後20年にわたり同地を統治します。
翌々年には半島北のカトリック系勢力であるアカイア公国を征服し、ペロポネソス半島をほぼ統一する事に成功。
オスマンの属国であったアテネを攻略するなどギリシアの征服を目指しますが、
オスマンの反撃に遭い敗退、アテネからの撤退を余儀なくされました。
1448年、兄ヨハネス8世の死去により東ローマの帝位を継ぎ、コンスタンティノープルへ入る。
しかし3年後、オスマン帝国をメフメト2世が継いだ際に帝位争いに介入した事から両国の関係は悪化してしまいました。
オスマン帝国はメフメト2世の指揮の元、コンスタンティノープル攻略に動きだします。
コンスタンティヌス11世はキリスト教会の東西合同を条件に西欧からの援助を受けるべく画策するも、
直接動いたのは帝都に商権を持つジェノバとヴェネチアだけでした。
こうして1453年、オスマン帝国とのコンスタンティノープル攻防戦が始まりました。
10万とも16万とも言われるオスマン帝国に対して、東ローマ軍は援軍を併せても僅か7000。
それでも東ローマ軍は善戦し、2ヵ月に渡って持ちこたえますが、さすがに無理があり5月29日帝都は陥落しました。
コンスタンティヌスは「私の胸に剣を突き立ててくれる一人のキリスト教徒もいないのか」と言い残しオスマンの大軍に自ら斬り込み、戦死します。
戦後メフメト2世はコンスタンティノープルへの遷都を行い、こうして1500年に及んだローマ帝国は完全に滅亡することになったのです。


フランソワ1世
分家の出身だったため、即位後の基盤は弱かったものの、徐々にその政治的バランス感覚を発揮し、ブルボン公国の接収などフランスの一体化を推進しました。
戦争好きな性格も大いに寄与し、ハプスブルク家に対抗すべく、強大な国王常備軍を整備しました。
度重なる軍事的敗北にもかかわらず、最終的にその治世下で国力の伸張を実現しました。 
また、芸術を愛する国王でもあったようです。


ヨハネス・ティリー
神聖ローマ帝国及びバイエルンの将軍、辺境伯。
若い頃はケルン戦争、スペイン戦争などに手勢を率いて参加、少しづつ名声を勝ち得ていきます。
その敬虔なで謹直な性格と信仰心の篤さから、「甲冑を着た修道士」と呼ばれました。
51歳の時バイエルン軍の総司令官に就任し、旧弊に陥っていたバイエルン軍の改革に乗り出します。
その甲斐あって、同軍は帝国軍きっての精鋭と称されるまでに生まれ変わる事になりました。
三十年戦争では、カトリック同盟軍の指揮官として従軍。
白山の戦いでボヘミア反乱軍を殲滅、一躍旧教世界きっての名将として注目され、帝国軍総司令官に就任しました。
以後10年に渡って帝国軍の指揮を執り続け、混乱する帝国の屋台骨を支え続けています。
71歳の時スウェーデン軍が参戦、ブライテンフェルトにてグスタフ・アドルフのスウェーデン軍に敗れました。
その戦いで重症を負うも、代理となったヴァレンシュタインの解任に伴い、病床のティリーが総司令官に再任されました。
翌年、レヒ河畔にて再びスウェーデン軍と戦い大敗、重傷を負って二週間後死亡しました。


テュレンヌ
フランス史上屈指の名将として知られております。
32歳でフランス元帥となり、ルイ13世没後一時フロンドの乱に加わるも、すぐ国王側に転じ、大貴族の反乱を鎮圧しました。
ルイ14世時代は絶え間ない対外戦争の時代であり、多くの戦役に従軍。
砂丘の戦いの後、ルイ14世により大元帥に任じられています。
機動戦の名手として知られ、オランダ戦争において連合軍を急襲機動戦で破ったエンツハイム戦いが有名ですね。
1675年ザスバッハの戦いに勝利しますが、自身は砲弾に当たって戦死しています。


イェルマーク
シベリアを征服したドン・コサック族の首長です。
ヴォルガの水夫から身を興し、豪商ストロガノフ家の援助を受けて、東方へ遠征。
シビル=ハン国を征服し、シベリア一帯を制圧し、イヴァン四世に献上しますが遠征の途上で戦死しました。
イェルマークの業績は語り継がれ、多くの民謡に残っています。


ヴォーバン
「ヴォーバンが攻囲した町は必ず落ち、ヴォーバンが要塞を築いた町は絶対に落ちない」といわれた、攻囲・築城の達人です。
彼の要塞の構築技法は、日本の五稜郭などにも影響を与えています。
経済学者としても名を残しており、貧民層の税負担軽減を説いた著書「王室の10分の1税」はルイ14世の不興を買って焼き捨てられました。


フニャディ・マーチャーシュ
「正義王」と呼ばれた名君です。
名将であるトランシルヴァニア公フニャディ・ヤノーシュの次男。
父と兄の死後、ハンガリー王ラースロー5世に幽閉されるが、後中小貴族に擁立されて王位に就きました。
進出するオスマンと戦い、またヨーロッパ方面にも領土を広げ、ハンガリーの黄金時代を築きました。
ウィーンを得た後、神聖ローマ帝国への更なる進出を企図するも急死してしまいます。
その死後、大貴族の勢力が再び強まり王権は弱化、軍紀も著しく乱れ、彼の覇業は一代限りのものとなってしまった。


アンリ4世
ブルボン朝初代フランス王。
在位中から現在に至るまでフランス国民の間で人気のある王で、大アンリ、良王アンリなどと呼ばれています。
シャルル9世の死後、アンリ3世、ギーズ公アンリとの間で「三アンリの戦い」となるが、アンリ3世の死によって王位に就きました。
これをきっかけにスペインの後ろ盾を持つカトリック同盟との間で戦争となるが、1593年カトリックへの改宗を発表し1594年に戴冠式を行います。
1598年にはナントの勅令を発し、カトリックを保護しつつプロテスタントの権利を認めることでフランスにおける宗教戦争を終息させました。
国内では側近マキシミリアンに国家経済の再建、農業の促進、開墾、公共事業の活発化などを行わせ、
首都パリの再開発、ルーブル美術館の大ギャラリーの建造、北アメリカの探検などを行い、内戦で疲弊したフランスを立て直しました。
アンリ4世は賢明で有能な君主であり、さらに国民の生活状態を配慮する姿勢が評価され、今日においても絶大な人気を誇っています。


ピョートル大帝
ロマノフ朝ロシア帝国 第4代皇帝。ピョートル・アレクセーエヴィチ・ロマノフ 。
身長2メートル以上、旺盛な食欲と知識欲、好奇心の持ち主。色々と豪快な人物です。
ロシアの強国化・近代化を目標に次々と大胆な改革を実施し、1697年には自らお忍びで西欧への「大使節団」に参加しました。
1700年からはバルト海の支配をめぐってスウェーデンと対立し、1721年まで北方戦争を続け最終的にはバルトの覇権を手にしました。
領土を拡大し、中央集権化を促進、さまざまな改革を行った後、1725年に崩御しました。
病の身でありながら、冬の海で転覆しそうな漁船を助けるため海に入ってしまったのが決定的な死因とされています。


ズリンスキー
ハプスブルク帝国のクロアチア総督。
わずか2500の兵力でスレイマン1世率いる10万のオスマン軍の包囲に対し、5ヶ月に渡り頑強に抵抗しました。


デヴレト・ギライ1世
1551年にオスマン朝の支援により伯父サーヒブ・ギライを殺害してハン位に就き、以後26年にわたって政権を掌握しました。
1569年、オスマン朝の宰相ソコルル・メフメト・パシャによるアストラハン遠征に対し、
その勢力拡大を警戒して積極的に協力せず、これを失敗に終わらせる一方で、
モスクワの拡大を警戒してポーランド・リトアニアと結んでこれを攻撃し、モスクワ市を炎上させました。
この勝利によりデヴレトは「タフト・アルガン」と称せられました。


マールバラ公
マールバラ公ジョン・チャーチルは、オランダ戦争にて武勲を立て、その後叛乱の鎮圧や各地の戦いで戦功を稼ぎました。
ルイ14世治下の欧州最強の陸軍と言われていたフランスとの戦いに参加し、
神聖ローマ帝国との連合軍5万で、タラール指揮下のフランス・バイエルン軍6万を打ち破り大勝しました。
さらに2年後のラミーユの戦いでも勝利しイギリス軍の強さを示し英雄となっています。
英国首相チャーチルの先祖だったりします。


ロバート・ブレーク
ピューリタン革命時は議会派の指揮官として陸戦を指揮。
1549年に海軍提督に任命され英蘭戦争などで大活躍しました。
イギリス海軍史上ドレイク、ネルソンと並び称される提督です。


ピエール・バヤール
シャルル八世、ルイ十二世、フランソワ一世に仕え、フランスのイタリア遠征で名をはせた軍人です。
「恐れ知らずにして非難の余地なき騎士」として騎士の理想とされました。
勇気と名誉を重んじると同時に、人間的にも優れ、勝利の後は敵に対しても寛大なところを示した、まさに騎士です。
イタリア戦役を通じて最高の勝利とされるマリニャーノの戦いにおける功績は、
主君フランソワ一世をして、彼の手で騎士に叙されることを望んだとされるほどでありました。


シュターヘンベルグ Starhemberg
エルンスト・リューディガー・フォン・シュターヘンベルグ伯。
陸軍大将としてオスマントルコ軍による第2次ウィーン包囲の中、
籠城側14000に対し包囲側は10万以上の戦力差であったが持ちこたえウィーン防衛を果たしています。
優れた防衛戦能力を発揮した軍人さんです。


モロシーニ Morosini
フランチェスコ・モロシーニ。ヴェネツィア共和国第108代元首(ドージェ)。
クレタ島をめぐるオスマンとの戦いではカンディアの防衛総指揮官として抵抗を示すが、
オスマンの猛攻の前に降伏を決意し、独断で和平を結びます。
その後、海軍総司令官に就任し、次々とオスマン艦隊を破ってかつて失った旧領を回復していきました。
そうして元首に選出され、オスマン戦においても病気をおして転戦した戦う元首。


ミハイ勇敢公 Mihai Viteazul
ワラキアのパトラシュク善良公の息子。
1593年9月にワラキアの公位に就いた。有能な武将であり、かつ、思慮深い政治家で
教皇や欧州各国の君主たちによって結成されていた反オスマン神聖同盟に参加し、
1594年には、トランシルヴァニア公バートリ・ジギスムント、モルドヴァ公アロンとの間に共同侵攻計画を成立させています。
そしてオスマンに対し戦線を布告、翌年、宰相シナン・パシャ率いるオスマン軍を撃破しました。
1599年、ハプスブルク家とバートリ家の対立に乗じてトランシルヴァニアに侵攻して占領、
翌年にはモルドヴァに侵攻してポーランドの支援により公位に就いていたイェレミア・モヴィラを追放して占領しました。
こうして、近代ルーマニアを構成する3地域はミハイの下に統一され、彼は自らワラキア、トランシルヴァニア、モルドヴァの公を宣言します。
しかし長くは続かず、ミハイ勇敢公はオーストリアのバスタ将軍の部下により暗殺されました。

前回25人紹介したはずが26人だったので今回は24人にしておきました!
前回にも増して誰だオマエって連中が羅列されていますが、研究の成果という事で許してクダサイ。
次は欧州圏の残りとイスラムの名将達ですね。スルタンでいいのかと疑問はありますがw

スポンサーサイト

theme : 大航海時代Online
genre : オンラインゲーム

comment

Secret

参考にさせてもらっています。

どうも、私は自作の戦略シミュレーションを作成してるものですが、今回制作中の大航海時代の戦略ゲームの将軍データ作成で、ページを参考にさせてもらい、ありがとうございました。  今後も、もし調べた結果があれば、載せていただければ、こちらのゲーム作りの参考になります。

ちなみに、ゲームのβ版はすでに稼働しているので、興味があれば以下のURLをどうぞ。
http://soresuta.com/WORLD_CONQUEST/game.html

はじめまして!
まさかこんなマイナーブログの趣味記事がゲーム制作の参考にされていたとは驚きました。。
ありがたいことです^^

少し見てみましたがミニゲームのようでいて細かく武将達が設定されていますね。
ブラウザでもここまで作りこめるんですね~、すごい技術です。
私も信長の野望が全然でない事にぷんすかして自分で戦略シミュ作るか!
ってプログラム少しやってみたけど即投げ出した経緯があるので尊敬に値します^^;
完成できるように応援致します~。

例のゲーム完成しました。

どうも、以前こちらでデータを参考にさせていただきました、鳥井です。

おかげさまで、ゲームが完成しましたので、ご連絡申し上げます。
以下がURLです。
http://soresuta.com/WORLD_CONQUEST/game.html

尚、このゲーム本体には私のサイト、ソレスタからのリンクも
張っておきます。
http://soresuta.com/

もし、追加したい人物、また設定能力値等にご意見があれば、
知らせていただければ、ありがたいです。
以上です。 それでは失礼します。

(P.S. 現在は、三国志正史のシミュレーションを作成しています。)
http://soresuta.com/THREE%20KINGDOM/scenario_data.xls
http://soresuta.com/THREE%20KINGDOM/world_map.jpg

バージョン1完成のお知らせ

どうも、以前、自作の戦略シミュレーションのことをご連絡させて
いただいたものですが、ゲームのバージョン1が完成したので
ご連絡させていただきます。
URLは以下のとおりです。

soresuta.com

尚、もし追加するべき人物の情報、または武将の能力値等に関する意見があれば、是非ご享受くださいますようお願いします。
なるべくゲームに反映していきたいと考えています。

それでは失礼します。 
プロフィール

エヴァンジェル

Author:エヴァンジェル
エウロス鯖の冒険者です。
大航海に関係ない事ばかりです。
暇で仕方がない時に更新します。



(C)2005 KOEI Co., Ltd. All rights reserved.
このホームページに掲載している『大航海時代 Online』の画像は、『大航海時代 Online』公式サイトにおいて使用許諾が明示されているもの、もしくは『大航海時代 Online』の有効なアカウントをお持ちのユーザーのみに株式会社コーエーが使用許諾を行ったものです。

っていうコピペぺたぺた

最近の記事
最近のコメント
月別アーカイブ
カテゴリー
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。