スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

大航海時代名将百選

|ω・`) お久しぶりの更新です。百選の編集作業で手間取っていたので遅れましたのです。
革新PKが楽しみです、絶対武田上杉等の過大評価武将は適正数値にシテヤル……。チート軍神イクナイ!
あと焼物の種類を増やすために隣国攻めろって目標の立て方が馬鹿っぽくて大好きですw
DOLの拡張はお願いだからLVキャップ上げないで……とだけ。
他の評価とかは他人のブログミテクダサイ。
うちはもっと不真面目なとこなので!(ぇ


というわけで大航海時代に生きる名将達を紹介したいと思います。
15世紀から17世紀に絞って世界各国の名将を揃えてみました。
こいつはどうよ? とか こいつはいないの? とかあったら教えてくださいね。
とりあえず今回は百人のうち、25人を紹介する事にしましょう。

ジョバンニ・デッレ・バンデ・ネーレ Giovanni dalle bande nere
黒い甲冑に身を包み、「ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(黒隊長ジョヴァンニ)」と呼ばれたイタリアの英雄です。
「イタリア・ルネッサンス最後の武将」と讃えられていて、彼の伝記は近年イタリアで映画になりました。
彼の子は、のちのトスカーナ大公コジモ1世です。
教皇レオ10世にローマに呼び寄せられて養育され、若いうちから傭兵隊長として教皇の身辺を護っていました。
レオ10世の没後、その死を悼んで軍旗や装備、槍まですべて黒で統一したため、上のような異名がついたのですね。
また、その勇猛さから「無敵のジョヴァンニ(リンヴィンシビーレ・ジョヴァンニ)」、「大魔王(イル・グラン・ディアボロ)」とも呼ばれました。
明朗快活・勇猛果敢ながら冷静沈着・機略縦横な一流の軍人で、
彼の名声を慕って各地から腕に覚えのある傭兵たちが集まり、
その軍は戦闘力、ことに機動力においては比類がなかったといわれています。
20歳の若さで教皇軍を率い、神聖ローマ帝国の皇帝軍を相手に幾度も勝利を重ねました。


アフォンソ・デ・アルブケルケ
ポルトガルのインド総督。
ゴアを占拠してアジア支配の拠点とし、マラッカも占拠してインド洋各地のイスラム港市攻撃に従事しました。
ポルトガル繁栄の一翼を担った人ですね。


フランシス・ドレイク Francis Drake
英国公認の海賊騎士としてみんなも知ってるドレークさん、イギリス黄金時代の立役者です。
エリザベス1世やレスター伯などから出資を受け、南米のスペインの植民地を襲撃して莫大な金銀を強奪したりしてます。
その配当は4700%にも達し、困窮していたイングランドの財政を救い、東インド会社などの投資の源泉となって、イギリス黄金時代を作り出す原動力になりました。
冒険者としてマゼランに次ぐ2人目の世界一周を達成し、エリザベス1世からナイトの称号を授かりました。
イギリス艦隊の副官として実質的な指揮を執りスペイン無敵艦隊を撃破するなど当時随一の名提督と言ってもいいかもしれませんね。
冒険交易海事と3拍子揃った廃人です(ぇ


ジル・ド・レ Gilles de Rais
フランス元帥。ジャンヌダルクと共に百年戦争に貢献、救国の英雄と呼ばれた人です。
魔術と幼児虐待で告発され、1439年に有罪となり処刑。
ナントの富裕な大領主で当時のフランス国王より資産を持っていたそうです。
童話「青髭」のモデルとして、どこかの冬木市にも英霊としてご来場されています。


アンドレア・ドーリア Andrea Doria
赤髭バルバロッサのライバル、地中海の鮫と呼ばれ恐れられた人です。
戦いに明け暮れながら94歳まで生きた長生きさん。
ジェノヴァの大提督でしたが、国内情勢の変化でフランスに亡命します。
その間フランスは地中海西域の制海権を握ることになりました、アンドレア・ドーリアの偉大さがわかりますね。
しかし、祖国ジェノヴァがフランスと戦争をしてしまい
彼は報復としてスペインに寝返って、今度はスペイン海軍に勝利をもたらすのです。
海賊としての面もあり、多くのトルコの船がドーリアのガレー船隊の餌食になっています。
オスマン帝国で彼の名を聞いて恐怖しない者はいなかったそうです。
ハイレディンとの対決は勝ったり負けたりですが、お互いに相手を恐れていたと言われています。


ゲオルグ・フォン・フルンツベルク von Frundsberg
マクシミリアン帝と並ぶ、「ランツクネヒトの父」と呼ばれる人物。
ランツクネヒトとはドイツ傭兵の意味です。
フルンツベルクは傭兵隊長として各地を転戦して大活躍し、当時の最も有名な軍指揮官でした。
特にパヴィアの戦いでフランス王フランソワ一世を捕虜にしたことは後々まで語り継がれております。


ナッサウ伯マウリッツ Maurice of Nassau
オラニエ公ウィレム1世の息子、1584年に父が暗殺されると、翌年ホラントとゼーラントの州総督に任命されます。
その後さらに3州の州総督になって北部7州をユトレヒト同盟として結集させ、オランダ連邦共和国を成立させました。
1597年以降スペインの南部諸州の攻略を目指すが、スピノラ将軍の反攻にあって一進一退します。
そうして十二年休戦条約を結び事実上オランダの主権を認めさせました。


アルテュール・ド・リッシュモン Arthur de Richemont
百年戦争後半のフランス王軍司令官。頑固で癇癪の人として知られています。
リッシュモンはブルターニュ公の一族でして、単なる軍人ではなく政治外交分野にも才能を発揮しています。
フランス、イングランド、ブルゴーニュの間で揺れ、その仲を取り持つなどして当時の難しい情勢を乗り切りました。
百年戦争の決定的勝利とフランス王軍の改革に貢献して、フランスを勝利に導きました。


ミヒール・デ・ロイテル de Ruyter
本名ミヒール・アドリアンソーン。オランダ史上最高の名提督ではないでしょうか。
英蘭戦争で海軍提督として参加、船の差や装備の質で劣っていたにも関わらず英国海軍を幾度も破りました。
ちなみに英国海軍の主力は戦列艦で102門を装備していた船もあります。
「4日間の決闘」では英国の名提督モンクとも戦い勝利しています。
1667年にメドウェイにて英国艦隊の大半を撃破して、イングランドに決定的敗北をもたらしました。


トロンプ Tromp
マールテン・ハルペルトスソーン・トロンプ。
ゼーゴイセンの流れを汲むオランダ海軍のカリスマ提督です。
ダンケルクの海戦ではスペインの大艦隊相手に1隻も失わずに一方的勝利を収めました。
またダウンズの海戦では40~70隻もの敵船を拿捕、撃沈し、
味方の被害は1隻のみという完全な勝利を収め、オランダに栄光をもたらしました。
晩年は質量で勝る英国海軍相手に苦戦続きですが、完全敗北とならなかったのはトロンプの力量でしょう。
彼の死後、上記のデ・ロイテルが後を継ぐことになります。


チェーザレ・ボルジア C. Borgia
「毒をもる男」の異名の通り謀殺毒殺が得意技です。
悪の典型のような君主であり、後世に先立ちイタリア統一を夢見た稀代の英雄でもあります。
枢機卿となるも「緋の衣」を脱ぎ捨て軍人となり、法王に従わない僭主たちを制圧。
1501年ロマーニャ公となって、知略武勇でイタリア諸国を震撼させました。
かのマキャベリは「君主論」で理想の君主として大絶賛しています。
父アレッサンドロ6世の死により、スペインに幽閉されますが脱走。
フランス軍の武将として転戦して、1507年戦死しました。


オリヴァー・クロムウェル Cromwell
清教徒革命を議会派の勝利に導いた指揮官です。
ピューリタン主義を精神的支柱とする軍規を遵守させた「鉄騎隊」を組織し、ネスビーで国王軍を打ち破りました。
国王・スコットランド両軍を破った後、国王との妥協に固執する長老派を弾圧して国王処刑を強行、共和制イングランドが始まります。
国内外に対し強攻策を採り、アイルランド・スコットランド遠征や水平派の弾圧、
航海条令の発布に伴う第一次英蘭戦争(52~54)をひき起こし戦争続きとなってしまいました。
自らは終身の「護国卿」の地位について政権を支配していました。


ジョージ・モンク Monck
アイルランド反乱では王党派軍を率いて戦ったが、後に議会派軍に転向しました。
クロムウェルに信頼され、スコットランド鎮圧軍司令官として活躍。
1652年に第1次英蘭戦争が勃発すると艦隊司令長官に任命され、
翌年のノースフォーランド沖海戦と、第1次テセル島沖海戦にて、圧倒的な火力と装甲で
トロンプ率いるオランダ艦隊を撃滅しトロンプを戦死させました。
1666年の第2次英蘭戦争でも艦隊を率いて活躍しますがデ・ロイテルに敗北する事になります。


エル・グラン・カピタン El Gran Capitan
本名ゴンザロ・フェルナンデス・デ・コルドバ (Gonzalo Fernandez de Cordoba)。
1492年グラナダを征服してレコンキスタを完結させたスペインの国民的英雄。
カスティーリャの内戦ではイザベラ女王の右腕として活躍しました。
幾度もフランス軍と戦い、特にガリグリアーノの戦いでは、
洪水した川を艀で渡っての奇襲により、質・量ともに勝るフランス軍相手に大勝しました。


エルナン・コルテス Hernan Cortes
コンキスタドール。
アステカ王にケツァルコアトルの生まれ変わりとして厚遇されるも、貴族たちの反発から追放を命じられ、退去。
手勢が少なかった為、コルテスと敵対していた派閥のスペイン軍を急襲してその兵を奪います。
その後、周囲の部族等も味方につけ、ついにアステカを滅亡させました。
コルテスはインディオ女性を妾として寵愛し、生まれた子供を混血の非嫡出子でありながら後継者に指名しています。


フランシスコ・ピサロ Francisco Pizarro
スペインのトルヒーヨ出身で、もとは豚飼いと言われております。
寡兵にて、インカ帝国征服を開始、インカ皇帝アタワルパを殺害し、
その後インカ帝国傀儡政権を維持・強化するためリマやその他の都市を建設しました。
 
アルヴァロ・デ・バサン Alvaro de Bazan
サンタクルス侯として知られるスペイン随一の提督です。
輝かしい軍歴を持ち、スペイン海軍の黄金時代を築いた。
若くして海軍に入り、実力で昇進した彼は、69年にサンタクルス侯爵に叙せられます。
2年後のレパントの海戦では予備艦隊を指揮し、トルコ艦隊を撃滅する上で重要な働きをしました。
また1580年にはアルバ公のポルトガル侵攻を海から助けました。
1583年に彼はスペイン国王フェリペ2世に、無敵艦隊の編成とそれによるイングランド侵攻案を進言します。
しかしフェリペ2世はフルスケールの編成を認めず、艦隊の規模を縮小させてしまいました。
リスボンでの無敵艦隊の編成準備中も、フェリペ2世の干渉が相次ぎ、サンタクルス侯を悩ませました。
その完成直前サンタクルス侯は急死し、無敵艦隊の指揮は海軍に不慣れなメディナ・シドニア公に委ねられることになる。


アルバ公 Duque de Alba
本名フェルナンド・アルヴァレス・デ・トレド・イ・ピメンテル(Fernando Alvarez de Toledo y Pimentel)。通称アルバ公。
ポルトガル征服の英雄として名高く、オランダで圧政を敷いたことで悪名高いです。
彼は自他共に厳しい性格で、兵士は厳しく教練すべしとの信念を持っていました。
自分の訓練された兵を手足のように使い、火縄銃をテルシオに限定されず活用することができた名将。
またアルバ公は単に優秀な戦術家であるのみならず、兵站の達人でもありました。
後世、彼は残酷な暴君として語られることが多いのですが、
当時のスペイン士官の多くは彼よりも残酷であり、彼が部下の暴走をたびたび制止したことは知るべきです。
特にプロテスタント国では悪逆非道な暴君として今日でも憎まれているが、
祖国スペインでは古き良き騎士の誇りを持った勇猛果敢な将軍として尊敬され続けている。
1524年、17歳の若さでスペイン軍の指揮官となった彼は、
フエンテラビアの戦いでフランス軍相手に軍功を立て、一躍脚光を浴びました。
スペイン王カルロス1世に取り立てられた彼は、1535年にチュニス侵攻を指揮してさらに名声を高め、
1547年にはミュールブルクの戦いでシュマルカルデン同盟の新教徒軍を破ります。
1552年にはイタリアの帝国軍指揮官となり、フェリペ2世の即位後はナポリの副王に任ぜられています。
この後のフランスとの戦争ではギース公フランソワを出し抜いて、フランス側に立っていたパウルス4世を屈服させました。
アルバ公は1563年時点ですでにオランダのオランダ貴族達の処刑を進言していたが、
1566年にフェリペ2世の命によりオランダに派遣され統治を委ねられました。
騒乱裁判所を開設、しかしこれはすぐに血の裁判所と呼ばれるようになります。
この裁判所は全てのオランダ法に優先するとされ、12,000人の逮捕状を発行しました。
その他10%の課税導入等によりオランダ執政政府の財政的独立性を高め、オランダの排他主義を破ろう試みました。
これにはオランダ人の間で猛反発が巻き起こり、血の裁判所の異端審問を逃れて海外逃亡していた貴族達は、
その後「ゼーゴイセン(海の乞食)」を名乗り、得意の海軍力を駆使して、海から反乱を起こしました。
1572年にはホーラント州とゼーラント州のほとんどが反乱軍の手に落ち、
さらにオラニエ公ウィレムとナッサウ伯ルイがドイツ・フランスから軍勢を率いてやってきました。
アルバ公は精鋭スペイン軍を率いてこれらを迎え撃ち、ウィレムとルイの軍勢を撃破し、
ホーラントとゼーラントの一部を取り戻しましたが、資金と海軍力の不足により、全てを取り戻すことはできませんでした。
1580年、アルバ公はポルトガル征服を命じられ、僅か数週間でリスボンを陥落させました。
DOLのイスパニアイベントで悪役として描かれていますが、どう考えてもイスパニアからみたら英雄なのですが…
しかも、かなり無能な人といった扱いで、激しく違和感がありますね。


ドン・ファン・デ・オーストリア D. Juan de Austria
スペイン王カルロス1世の庶子の一人で、フェリペ2世の腹違いの弟。
レパントの海戦を指揮してオスマン帝国艦隊を撃滅した名将として名高い人です。
カルロス1世の死後、その後を継いだフェリペ2世は、彼を弟だと認め、
ドン・ファン・デ・オーストリアの名前と領地を与えました。
1568年にムーア人海賊相手の海戦で活躍し、翌年にはグラナダの反乱を鎮圧する軍を指揮。
こうして陸海両軍の経験を積んだ彼は、若干24歳にてオスマン帝国に対抗する神聖同盟艦隊の総司令官の任に就きました。
この状況下で、フェリペ2世はドン・ファンをオランダの新執政に任命。
翌年ドン・ファンは、オランダがカトリックに戻る代わりにスペイン軍がオランダから退去する、
という永久法令を出し、オランダ議会との和解を図りますが、ホーラント・ゼーラント両州がこれを認めず、議会から脱退します。
ドン・ファンもこれに対抗してナミュール城を占領し、レパント海戦時代の副官パルマ公ファルネーゼを呼び寄せて戦力を強化し、
1578年にはガンブルーの戦いで反乱軍を打ち破りました。


アレッサンドロ・ファルネーゼ Alessandro Farnese
レパントの海戦にドン・ファン・デ・オーストリアの副官として参加。
1578年にはゲンブローの戦いで勲功を立て、ドン・ファンが死ぬと、後継者として指名され、
フェリペ2世はファルネーゼをオランダの総督兼将軍に任命しました。
彼は指揮官としても一兵士としても優秀で、しかも社交的で人間的な魅力にも溢れ、狂信を排する理性を持っていた稀有の人です。
ファルネーゼは、反乱軍の組むユトレヒト同盟と戦いつつ、オランダ諸州のうちカトリックが多数派を占める州に外交的切り崩しをかけます。
この間に病に倒れますがそれも物ともせず、マーストリヒトを陥落させ反乱軍に大打撃を与えました。
外交面では同じ年にアラス条約を締結し、オランダ南部の州をスペイン側に引き戻すことに成功します。
アラス条約では、全ての外国兵力とファルネーゼ本人が、六ヶ月以内にオランダから撤退することになっていました。
しかしファルネーゼは政治的裏技を駆使し、条約に違反しない形でオランダに残ることに成功。
さすがにスペイン正規軍は撤退せざるを得ず、ファルネーゼの手元に残されたのはオランダ兵15,000人だけ。
誰もがこれではファルネーゼも何もできまいと考えたていましたが、
この状態から彼は1581年トゥルネーの町を陥落させ、ここにスペイン執政政府を置く。
さらに1582年にはアラス条約諸州を説得してスペイン主力軍を呼び戻すことに成功し、
1584年陸海からの包囲により、ついにアントワープを陥落しました。
もしファルネーゼがこのまま北部侵攻を続けていれば、オランダの反乱は粉砕され、
オランダはスペインの統治下に戻っていたことでしょうが、国王の信頼を得られず成し遂げる事はできなかったのです。
ファルネーゼはスペインのオランダ執政歴代の中でも際立った戦略家・外交家であり、
彼の作り出したアラス条約は今日のベルギーの礎となっています。


モチェニーゴ Moceningo
ピエトロ・モチェニーゴ。ヴェネツィア共和国第70代元首(ドージェ)。
海軍提督として名高く、1472年スミルナを占領して破壊し、
1474年スクタリにおいてオスマン朝軍により包囲されるもこれを打ち破りました。
同年、元首に選出。1475年オスマンとの間で和平交渉が始まりましたが、
オスマン側の要求が法外であったため、これを拒否しました。


セバスティアーノ・ヴェニエル Veniero
70歳を超えながらレパントの海戦でヴェネチア海軍総司令官としてオスマンを撃退した老提督。
老いたる熱血漢な人で、しかし自らの欠点を自覚していたが為、副司令官に冷静沈着なバルバリーゴを重用していました。
その後、81歳という高齢で元首(ドージェ)に選出されました。
レパントの海戦はドン・ファン、サンタ・クルス侯、ファルネーゼなど名将達が勢ぞろいしている華々しい戦いでもあります。



ブラガディン Bragadin
ファマガスタ防衛戦の英雄。
ヴェネチアにとってキプロス島最後の拠点であったファマゴスタの防衛戦を指揮し、
ララ・ムスタファ将軍の率いるオスマン帝国の大軍を相手に11ヶ月もの間、耐え抜きました。
全守備兵の生命の保証を条件に降伏するのですが、攻囲戦で莫大な犠牲を出したオスマン軍の怒りは収まらず、
ブラガディンは筆舌に尽くせぬ残酷な方法で処刑されてしまいました。


スカンデルベグ Skanderbeg
本名はギェルギ・カストリオトといいます。
アルバニアの歴史的英雄で1442~68年にかけてオスマンと戦い続けました。
当初はオスマン軍人として功績をあげて将軍まで上り詰めましたが、
キリスト教国の侵入と呼応してオスマン帝国に対し反乱を起こしました。
ローマやハンガリーの支援が無くなっても、独力のみでオスマンの大軍を度々退けた名将です。
1468年に彼は病没するとその後10年に渡りオスマンの進攻が続きアルバニアは陥落します


ヴァレンシュタイン Wallenstein
ドイツ三十年戦争における皇帝側の名将で「戦争商人」とも言われています。
ボヘミアの新教貴族の家に生まれたがのちカトリックに改宗、
三十年戦争のきっかけとなったボヘミアの反乱に際しては、
国王フェルディナントを支持してこれを鎮圧、反乱新教諸侯の領地を没収し巨富を築きました。
1625年には5万の傭兵隊を組織し、皇帝軍総司令官としてデンマーク王クリスティアン4世と戦い、
ティリーとともに王をドイツから駆逐します。
スウェーデン王グスタフ=アドルフと戦い実質的敗北に等しい苦戦の末、運良くグスタフ・アドルフを戦死させる事となります。


グスタフ・アドルフ Gustav II Adolf
スウェーデン王グスタフ2世アドルフ、スウェーデンを一大強国にした王。
武勇で知られ,“北方の獅子”と呼ばれ,ドイツへの遠征で有名である。
軍事上革命的な改革を行った彼は、「三兵戦術」と呼ばれる近代戦法の祖。
軍隊の3大要素、打撃、運動力、防御力を、近代的な火器を用いた戦闘に適したのに仕上げた戦術史の革命者です。
薄く長い隊形は火力戦闘を効果的なものにし、機動は容易になり、敵の火力攻撃の効果を減少させることにもなりました。
常に指揮官として陣頭に立ち、戦闘で13回も負傷しており、ヴァレンシュタインとの対決「リユッツェンの戦い」で、
戦闘では勝利しながらも自らは戦死してしまいました。
もし彼が生きていたのならば、スウェーデンの歴史は大きく変わっていたでしょう。


今回は、ここまでです。欧州人だけでなく世界の人物を取り揃えております。
世界史がめどくなったので代替企画ともイイマス。ゴホゴホ

スポンサーサイト

theme : 大航海時代Online
genre : オンラインゲーム

comment

Secret

プロフィール

エヴァンジェル

Author:エヴァンジェル
エウロス鯖の冒険者です。
大航海に関係ない事ばかりです。
暇で仕方がない時に更新します。



(C)2005 KOEI Co., Ltd. All rights reserved.
このホームページに掲載している『大航海時代 Online』の画像は、『大航海時代 Online』公式サイトにおいて使用許諾が明示されているもの、もしくは『大航海時代 Online』の有効なアカウントをお持ちのユーザーのみに株式会社コーエーが使用許諾を行ったものです。

っていうコピペぺたぺた

最近の記事
最近のコメント
月別アーカイブ
カテゴリー
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。